『やちまた』は春庭の生涯や業績をたどるだけの本ではない。著者の足立巻一(1913‐1985)が専門学校の授業で初めて春庭を知ってから50代に至るまで、途中に戦争を挟みつつ、長い時間をかけ調査や探究を進めてきた軌跡も記されている。
さらには、春庭と関わりのあった人物や家族のこと、そして自身の友人や恩師や研究に関わる人々のことなどが、それぞれ群像劇のように生き生きと描かれているのである。
読んでいて震えるような素晴らしい内容だ。
印象に残った箇所をいくつか引いておこう。
紀州藩は松阪に城代を派遣してその配下には二人の勢州奉行をおいていたが、武士の圧力は一般の城下町のように強いものではなかった。城内には城代屋敷と牢屋があるくらいで、奉行所、役宅は堀の外側にあり、武士の数も至って少なく、その点でも松阪は町人の世界であった。
江戸時代、松阪は紀州藩の飛び地であった。三井財閥の三井家が松阪発祥であることや、宣長が一時紀州藩に仕えたこと、さらに養子の本居大平が和歌山に移住するようになったことには、こうした背景が関わっている。
春庭は活用をハタラキと名づけた。かれはそのことばのハタラキを文献から搔き集めるようにして探っては法則へ帰納していったのだが、その苦渋に満ちた作業は木版本の活用表に凝固しているように見える。
現在では活用と言えば、古文の時間に活用表を暗記させられ、無味乾燥な世界のように思われている。しかし、当り前の話だが、先に活用表があって言葉の活用が生まれたのではない。多くの活用をもとに活用表が生み出されたのだ。
そして、その表は、春庭をはじめとした国学者たちが膨大な用例からサンプルを抽出し、試行錯誤して作り上げたものだ。まさに活きて働き、言葉のさまざまな意味を生み出すものとして、活用がある。
一枚の活用表の裏に、多くの先人たちの苦闘が秘められていることに気づかされた。