「塔」所属の作者の第1歌集。
遠浅の海は広がる生徒らがSと発音する教室に
草原に干されたままの両膝が風化してゆく前に帰らう
船上のやうに明かりの揺れてゐるタイ料理屋にエビの皮を剝く
黒猫のあゆみはしづかぬおぬおと浮き沈みする両肩の骨
日曜が等間隔に訪れて忘れたくないことが消えてゆく
泣く代はりに武田百合子の文章を読めば土曜も終はりに近い
八月の夕暮れ時は室外機のやうに心を放つておきたい
納豆の糸の切れつつひかり帯びて微笑みたるか半跏思惟像
エコバッグ背負へば軽し背負はれて物見遊山の牛蒡、長葱
明るさは極まりながら蜂蜜のなかに季節は静止してゐる
1首目、S音の響きが波の引いていく音を思わせて幻の海が見える。
2首目、長いことじっと座っていたのだろう。「風化」が印象的だ。
3首目、吊り下げられたイルミネーション。別世界の雰囲気がある。
4首目、猫の身体や動きををよく捉えている。「ぬおぬお」がいい。
5首目、「等間隔」に発見がある。いつの間にか遠ざかってしまう。
6首目、悲しい時の対処法。武田百合子を読むと心が落ち着くのだ。
7首目、比喩がおもしろい。人間の心は体の外には出せないけれど。
8首目、上句から下句への飛躍が鮮やか。頬へと伸びる指先の感じ。
9首目、おんぶされた子どものようにエコバッグから先が出ている。
10首目、蜂蜜の明るさは花が咲いていた季節の明るさだったのか。
2024年4月29日、青磁社、2500円。