2024年06月04日

森鷗外と国学

中澤伸弘『やさしく読む国学』を読んで思い付いたことの一つに、森鷗外と国学の関わりがある。鷗外の活動と重なる話がいろいろと出てくるのだ。

真淵の著作には『○○考』という書名が多くあります。『国意考』『文意考』『歌意考』『書意考』『語意考』で、以上の五つを五意考と言います。(…)ほかに『萬葉考』、枕詞について述べた『冠辞考』、延喜式祝詞について述べた『祝詞考』などがあります。

こうした書名は鷗外最晩年の『帝諡考』や未完に終わった『元号考』を想起させる。

一方、古書に引用されて残った逸文の採集も積極的に行なわれ、江戸の考証学者・狩谷棭斎の『諸国採輯風土記』をはじめ、同じく江戸の前田夏蔭や黒川春村らの地道な研究により、「古風土記逸文」は今日の形となっています。

狩谷棭斎(かりや・えきさい)は鷗外の史伝小説で有名な渋江抽斎の師で、鷗外は狩谷の史伝も執筆しようとしていた。

この表音表記については、明治時代末ごろから、表記法として認めるべきだといった声があがってきましたが、伝統的な立場に立つ人はこれに反対しました。森鷗外の『仮名遣意見』などは、この立場に立って表音表記を批判したものでした。

ここには鷗外の名前が出てくる。

歌人でもあり、その一方で古代研究、古器古物に興味をもち、正倉院宝物の調査に従った穂井田忠友は、これらの物品を描写した図録『埋麝発香』を刊行することを計画しました。

穂井田忠友(ほいだ・ただとも)については、鷗外の「奈良五十首」の中に次の歌がある。

少女をば奉行の妾(せふ)に遣りぬとか客(かく)よ黙(もだ)あれあはれ忠友(たゞとも)

以上のような点から考えると、鷗外は特に晩年において国学にかなり近づいていたのではないかという気がする。

posted by 松村正直 at 08:31| Comment(0) | 国学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。