2024年05月31日

村山壽春のこと(その3)

村山の作品は戦中に編まれたいくつかの傷痍軍人の短歌アンソロジーに収められている。例えば由利貞三編『白衣勇士誠忠歌集』(1942年)には42首が掲載されている。

手をとりて鳥居に触れさせみとり女は今参道へ入ると教へぬ
股肱われこの手この眼は捧げたり残る命も君に捧げん
見えざれば母上の顔撫でゝ見ぬ頰柔かく笑みていませる
友軍の戦況告ぐる放送に残る拳をにぎりしめけり
鳳仙花咲いたときゝて探り見ぬ実が二つ三つ手に弾けたり

1首目は看護師に連れられて明治神宮に参拝した時の様子。目の見えない村山にとって、触れることは生活の基本となっている。2首目の「この手」、4首目の「残る拳」からは手も負傷したことがわかる。

誌面には目に包帯を巻いた写真と、次のような作者紹介がある。

(戦盲)村山壽春(ムラヤマトシハル)京都府 中尉(篠原誠部隊志摩部隊)

揚子江岸安慶附近戦闘に於て地雷爆破の為両眼失明、右腕切除。左手指損傷、鼓膜破裂、全身破片創。外に肋骨重傷切断。

何とも凄まじい重傷だ。両目が見えないだけでなく、右腕も失っている。

村山が負傷したのは1939(昭和14)年の南昌作戦においてであり、当時彼は第116師団(師団長:篠原誠一郎中将)の歩兵第120連隊(連隊長:志摩源吉中佐)に所属する陸軍中尉だったようだ。

佐佐木信綱、伊藤嘉夫共編『戦盲:大東亜戦争失明軍人歌集』(1943年)には、「療養練成編」に30首、「再起更生編」に20首の計50首が掲載され、退院後の京都での暮らしも詠まれている。

母が手に白衣をぬぎて紺絣黒の羽織と重ね着るかも
己が身は涼しき風に吹かれつつ南(みんなみ)の戦地思ふ夜半かな
鴨川の堤の柳手にふれてものやはらかき芽をふけりみゆ
たはむれに牛の鳴くまねわがすれば皆が笑ひて我家あかるし
梅が枝の蕾静かに香を秘めて我が運命を暗示する如し

その後の村山の消息については何もわからない。

戦争を生き延びることができたのか、戦後の暮らしはどうだったのか。もしご存知の方がいらっしゃったらご教示ください。

posted by 松村正直 at 19:35| Comment(0) | 河野裕子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。