手をとりて鳥居に触れさせみとり女は今参道へ入ると教へぬ
股肱われこの手この眼は捧げたり残る命も君に捧げん
見えざれば母上の顔撫でゝ見ぬ頰柔かく笑みていませる
友軍の戦況告ぐる放送に残る拳をにぎりしめけり
鳳仙花咲いたときゝて探り見ぬ実が二つ三つ手に弾けたり
1首目は看護師に連れられて明治神宮に参拝した時の様子。目の見えない村山にとって、触れることは生活の基本となっている。2首目の「この手」、4首目の「残る拳」からは手も負傷したことがわかる。
誌面には目に包帯を巻いた写真と、次のような作者紹介がある。
(戦盲)村山壽春(ムラヤマトシハル)京都府 中尉(篠原誠部隊志摩部隊)
揚子江岸安慶附近戦闘に於て地雷爆破の為両眼失明、右腕切除。左手指損傷、鼓膜破裂、全身破片創。外に肋骨重傷切断。
何とも凄まじい重傷だ。両目が見えないだけでなく、右腕も失っている。
村山が負傷したのは1939(昭和14)年の南昌作戦においてであり、当時彼は第116師団(師団長:篠原誠一郎中将)の歩兵第120連隊(連隊長:志摩源吉中佐)に所属する陸軍中尉だったようだ。
佐佐木信綱、伊藤嘉夫共編『戦盲:大東亜戦争失明軍人歌集』(1943年)には、「療養練成編」に30首、「再起更生編」に20首の計50首が掲載され、退院後の京都での暮らしも詠まれている。
母が手に白衣をぬぎて紺絣黒の羽織と重ね着るかも
己が身は涼しき風に吹かれつつ南(みんなみ)の戦地思ふ夜半かな
鴨川の堤の柳手にふれてものやはらかき芽をふけりみゆ
たはむれに牛の鳴くまねわがすれば皆が笑ひて我家あかるし
梅が枝の蕾静かに香を秘めて我が運命を暗示する如し
その後の村山の消息については何もわからない。
戦争を生き延びることができたのか、戦後の暮らしはどうだったのか。もしご存知の方がいらっしゃったらご教示ください。