「没後四十年 高安国世再発見」という特集が組まれ、「高安を直接には知らない世代」の6名がそれぞれ「子育て」「海外留学」「地方と東京」「日常の発見」「自然」「前衛」のテーマで評論を書いている。
北奥宗佑「非日常の輪郭」は、1957年の高安の西ドイツ滞在について次のように書く。
これを「留学」と捉えるかどうかは微妙なところであり、高安自身も『北極飛行』や先行する『砂の上の卓』のあとがきでは自らの滞独を指して「留学」の語を使わず、「滞在」や「外遊」の語を用いている。同じ大学教員の視点から見れば、高安のドイツ滞在は実質的にはいわゆるサバティカル、つまり大学教員がキャリアの途中で一年程度外国で過ごす研究休暇と捉えるのが正確に思われる。
とても大事な指摘だと思う。これまで高安の「ドイツ留学」と言われることが多く、私も『高安国世の手紙』の中でそのように書いているが、実際には北奥の記すように研究休暇という性格のものだったと見て間違いない。
千葉優作「前衛、暁を覚えず ―高安国世の夜明け―」は、「アララギ」出身の高安が「塔」を創刊するに至る経緯を記した上で、
『塔』創刊の頃の彼は、自らを育みくれし『アララギ』に対する愛着を、捨てきれなかったのではあるまいか。
高安は、激しく変化してゆく時代にあって、『塔』と『アララギ』という二つの結社に引き裂かれる苦しみの中にいたのである。
と書いている。高安作品の傾向や変化について言えば、この指摘は当っているし、その通りだと思う。ただし、「塔」と「アララギ」は結社として対立する関係にあったわけではない。それは、高安が「塔」創刊後も「アララギ」の会員であり続けたことからも明らかだろう。
以前、高安は1984年に亡くなるまで「アララギ」の会員のままだったのではないかと、このブログに書いたことがある。
https://matsutanka.seesaa.net/article/387139186.html
今回思い付いて高安の亡くなった頃の「アララギ」を調べてみると、1984年9月号の編集所便(吉田正俊)に、
△高安国世氏は七月三十日、京都第二日赤病院にて死去されました。謹んで哀悼の意を表します。
と書かれている。また、翌10月号の編集所便にも、
△故高安国世氏歌集「光の春」が昭和五十六年夏から五十九年二月迄の作品四百首を収載氏、短歌新聞社より発行になりました。著者の第十四歌集。定価二三〇〇円。
△高安国世氏御遺族和子氏より三十万円、(…)発行費に御寄附いただきました。厚く御礼申します。
とある。
これらは高安が終生「アララギ」の会員であった証拠となるだろう。