『貴妃の脂』(1989年)、『クウェート』(1994年)に続く第3歌集。30年ぶりの歌集ということになる。幼少期の回想の歌や恋の歌が印象に残った。
桃の葉が指(および)のやうに垂るる午後 重たいおとうさまの文鎮
樹の影をうつして池は昏れはじむ墨溜りのくらさまでもう少し
薬袋(やくたい)を柳葉包丁に裂き開けて祖母が押し殺しゐしもの知らず
すれつからし あばずれ みづてん きらきらとをみなごだけが被(き)せられし笠
桃の花ぼつと明るし牛乳(ぎうちち)はよく嚙んでから飲むと習ひき
「元少年」といふ不可思議な日本語がひらひらとせり朝の郵便受(ポスト)に
だし喰ひのお砂糖喰ひの棒鱈がわが家一年分の砂糖を食ひき
何をして食べてゐるのか分からない叔父などがむかしどの家にもをりし
両切りのピースのつよいニコチンはあなたの若さだつた 髪も強(こは)かりき
言はずとも分かつてゐるといふひとにどんなわたしが見えてゐるのか
ブラウシュバルツのインクをときみが言ふからに銀座伊東屋までの春雪(しゆんせつ)
入院をすれば家族の手の中の光年よりも遠いこひびと
1首目、若くして亡くなった父親。「おとうさま」に時代を感じる。
2首目、池の水面の暮れゆく様子には心の翳りに通じるものがある。
3首目、女性ゆえに耐え忍んできたものが、きっと祖母にもあった。
4首目、性的に奔放な人物を悪く言う言葉だが、男性には使わない。
5首目、昭和の頃の懐かしい教え。あれは何のためだったのだろう。
6首目、少年犯罪を犯した人物が成人した後にだけ使う特別な用語。
7首目、京都の正月の伝統的な食べ物。手間のかかることで有名だ。
8首目、ジャック・タチ「ぼくの伯父さん」もフーテンの寅さんも。
9首目、元気だった頃の恋人の姿。煙草を吸う人も減ってしまった。
10首目、言葉にしなくても分かり合えるというのは本当かどうか。
11首目、万年筆と輸入物のインクを使う昔ながらの学者肌の人物。
12首目、入院や死の場面には家族以外は立ち入ることができない。
2024年1月21日、砂子屋書房、3000円。