神無し月十三日けふ金曜日ゆるさし一万九十名の中の一人なり我は
(「ゆるさし」って何?「一万九十名」って何?)
調べてみると、これは1950(昭和25)年の歌で、10月13日に10,090名の公職追放が解除(第一次)された出来事を詠んだものであった。
小高賢編『近代短歌の鑑賞77』の中で「ゆるさし」となっているのは誤植で、正しくは「ゆるされし」。アンソロジーには時々こういうことがあるので注意が必要だ。
初出は「多磨」1950年12月号。「解除」という題で9首載っているうちの最初の歌である。ちなみに2首目は、
いまさらの解除なにぞとおもほえど我が反証よつひに徹りし
というもの。不当な公職追放だったという無念の思いが滲む。
そもそも、なぜ中村は公職追放を受けたのか。
昭和23年6月7日の官報の「公職資格訴願審査結果広告第十九号」に、中村正爾は「アルス編集部長」として載っている。
(「中村政爾」となっているが、翌8日の官報に訂正が掲載)
同じく北原鉄雄(白秋の弟)も「アルス社店主」として載っており、出版社での活動が公職追放の原因となったようだ。
この時点で北原の追放は「解除」となったが中村は「不解除」で、中村の追放解除は1950年10月13日まで待たなければならなかった。
アルスは昭和15年から16年にかけて、『日本とナチス独逸』『日独伊枢軸論』『ナチスのユダヤ政策』『ヒットラー伝』など「ナチス叢書」25冊を刊行しており、そのあたりがおそらく追放の原因になったのだろう。