1898(明治31)年の創刊から125年という長い歴史の重みをずっしりと感じる内容だ。
谷岡亜紀の評論「短歌と国語」は、短歌と言葉や国語の関わりを論じたもので、私も関心を持っているテーマなのでとても面白かった。全15ページという長さであるが、このテーマで一冊の本が書けるくらい、多くの論点を含んでいる。
特にその大胆な変革が、明治維新後と敗戦後の「新時代」の機運の中で断行されたことは特筆される。「国語」を大きく変更するという荒業は、変革期のどさくさ(というと言葉は悪いが)の中でしかできない。
現代短歌に用いられているのは、実はごく限られた「文語文法」であり、それはもはや(過去の遺物などではなく)「現代短歌用語」の範疇と考えるべきである。
文法の話になるとちょっと苦手という人は歌人にも多いが、「短歌に関わる人間は、いわば言葉(日本語)の実践における最前線にいると言える」という著者の言葉は心強い。土岐善麿や俵万智が国語審議会の委員であったことなども思い出す。
加古陽の評論「太平洋戦争と『鶯』の時代」は、1940年から44年まで佐佐木治綱が中心となって刊行された短歌誌『鶯』を取り上げて論じたもの。これまで『鶯』については全く知らなかったので、興味深く読んだ。
中でも宇野栄三(1916‐1942)という歌人が印象に残った。信綱の助手を務めていた人物で『鶯』創刊に参加、東部ニューギニアの戦いで戦死した。
ニューギニアに向かう戦中から信綱に寄せたはがきに戦地での詠草が「三百首に達し清書はしたが、紙数が多く兵卒ゆゑおくることが出来ぬ」(信綱『明治大正昭和の人々』)とあったが、ついに死後も届かなかった。
せっかく詠んだ歌が届かなかった無念を思う。同じくニューギニアで戦死した米川稔(1897‐1944)が戦地から「陣中詠定稿」210首を内地に届けることができたのとは対照的だ。そこには米川が「兵卒」ではなく士官だったことも関係しているのだろう。
もう一つ興味を引かれたのは、竹山広の戦中の歌が紹介されていることである。
現在『定本竹山広全歌集』は1981年刊行の第1歌集『とこしへの川』から始まっている。でも、竹山は『鶯』にも参加していて、戦時中も多くの歌を詠んでいた。
サラトガ撃沈の写真を見て二首
母艦より海に飛び込む敵兵の蛙のごとき落ちざまあはれ
海面にいまだ届かぬ幾たりが燃ゆる母艦とともに撮られぬ
/『鶯』1942年9月号
アメリカの空母「サラトガ」は第二次ソロモン海戦の後に日本の潜水艦の攻撃を受けて航行不能に陥った。詞書には「撃沈」とあるが実際は沈んでいない。3か月に及ぶ修理を経て実戦復帰している。
加古は「こうした歌の提出は、戦後の竹山広なら許さなかっただろう」と記している。その通りではあるが、一方で「蛙のごとき」「海面にいまだ届かぬ」といった表現には、冷徹な竹山らしさが既に感じられるようにも思う。
原爆詠をはじめとした竹山の戦後の歌を真に理解するには、戦中の歌も含めて読んでいく必要があるのかもしれない。