2020年に休刊した講談社のPR誌「本」に連載した文章を中心に、コロナ後の鉄道についての考察を追加してまとめたエッセイ集。
政治学者でもある著者は、鉄道に関するマニアックな話を記すだけでなく、そこから社会や時代、文化の姿を読み取っていく。鉄道という切り口からの社会批評と言っていいだろう。
政治的には中央集権体制だった明治時代のほうが、現在よりも東京のターミナルは分散していた。東海道本線は新橋、中央本線は飯田町、東北本線や常磐線は上野、総武本線は両国橋がターミナルだったからだ。
駅構内での放送の記憶をたぐり寄せてゆくと、少なくとも七〇年代までの鉄道は、視覚よりも聴覚を通した案内の割合が高かったことがわかる。聴覚と鉄道は、密接なつながりがあったのである。
アウシュヴィッツに送られたユダヤ人と長島に送られたハンセン病患者は、単に貨物列車に乗せられたという点で共通するだけではなかった。その根底に横たわる思想にまで、共通性があったのである。
そこに居合わせる人々との予期せぬ出会いもまた、オンラインにはない鉄道ならではの体験と言ってよい。明治以降のすぐれた小説や童話は、まさにこのテーマを扱ってきた。それは夏目漱石の『三四郎』や、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を見ても明らかだろう。
天皇が鉄道を詠んだ短歌も登場する。鉄道×短歌。
明治以降、日本の鉄道は〈男性〉と結びついてきた。一九八八(昭和六十三)年の歌会始で、昭和天皇は「国鉄の車にのりておほちちの明治のみ世をおもひみにけり」という和歌を詠んでいる。
六五年五月七日、天皇と皇后は初めて東海道新幹線を利用した。9時30分に東京を出た特別列車は、新大阪に13時30分に着いた。天皇は「四時間にてはや大阪に着きにけり新幹線はすべるがごとし」と詠んでいる。
個人的に印象に残ったのが、小田急線の駅名の付け方についての話。
小田急の「前」に対するこだわりは、これで終わったわけではなかった。八七年に大根が東海大学前に、九八年に六会が六会日大前にそれぞれ改称されている。学校に「前」を付ける習慣が開業当初の成城学園前から始まっていることを踏まえれば、一種のお家芸と言ってもよい。
なるほど、そうだったのか! 生家は小田急線の玉川学園前が最寄駅だったので、何とも懐かしい。
2021年12月8日、講談社、1800円。