2024年02月07日

丸エキさんのインタビュー

米川稔と関わりの深い人物に丸エキさんという方がいる。以前、このブログでも少し触れたことがある。

「丸エキさんという人」
https://matsutanka.seesaa.net/article/490667545.html

この丸エキさんに関する新しい資料を入手した。


DSC01648.JPG


「かまくら図書館だより」第60号(1996年2月)である。

「助産婦として、保母として歩んだ道 丸エキさん、まだ88才! 人生はいつだってこれから」と題して、全8ページにわたるインタビューが掲載されている。

米川稔に関する部分を少し引いてみよう。

――米川先生が出征なさったのは昭和18年ですか。
 ええ、18年の12月に赤紙がきてね。19年の1月4日に入隊だって言うの。暮れもおしせまって、28日に召集がきたんです。軍刀やピストルを用意するのに苦労しました。48歳で召集されたんですよ。私は、もちろん、宇都宮まで送っていきましたけどね。軍医さんだから、どこか陸軍病院のお留守番にさせられるんだろうと気楽に考えて帰ってきたんですよ。そうしたら、そうじゃない。そのまま九州にまわってね、どんどん戦地へ行っちゃったの。ニューギニアへね。そして怪我をして、若い従卒に水を探してくるよう命令した後、ジャングルの中で手榴弾で自決されたんですって。戦争が済んでから伺ったはなしですけどね。お子さんがいなかったから、何も思い残すことがなかったんでしょう。いい人でしたのよ。歌詠みでね。北原白秋先生のお弟子さんだった。でも、北原先生が亡くなって死に水をおとりして、そして自分も逝ってしまいました。
――米川先生のどんなところを尊敬していらしたんですか。
 難しい人だと言われて来たんですけどね。まあ、私はそんなに難しいと思わなかったし、それで、わりあいとかたい方だったのね。歌の勉強をするくらいだから。その頃、私もあまり丈夫でなかったりして、よく具合が悪くなると注射なんかもしてくれましたよ。

これ以外にも初めて知るエピソードがたくさん出てくる。どれも50年以上前の話であるが、細かな日付などもはっきりと覚えている。

この時、丸さんはまだ現役の助産師として働いていた。お産のカルテが助産所に約8500枚あり、それ以前に働いていたところの約1500枚をあわせると、約1万人のお産に立ち会ってきたとのこと。

何ともすごい人なのであった。

posted by 松村正直 at 22:54| Comment(0) | 米川稔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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