副題は「意志と責任の考古学」。
かつてインド=ヨーロッパ言語に広く存在していた「中動態」というボイスを手掛かりに、私たちの「意志」「選択」「責任」「自由」といった問題について、哲学的な考察をしている。
小さな疑問や問いを疎かにすることなく、過去の哲学者たちの論考も参照しながら、地道に考えを深めていく。そして、階段を一歩一歩のぼっていくように丁寧に言葉で整理していく。読者はその思考の筋道を著者と伴走することになる。
久しぶりに、じっくりと脳を使う心地よい読書体験だった。
中動態を定義したいのならば、われわれがそのなかに浸かってしまっている能動対受動というパースペクティヴを一度括弧に入れなければならない。
「私」に「一人称」という名称が与えられているからといって、人称が「私」から始まったわけではない。
現代英語においても、受動態で書かれた文の八割は、前置詞byによる行為者の明示を欠いていることが、計量的な研究によってすでに明らかになっている。
「見える」は文語では「見ゆ」である。同じ系統の動詞にはたとえば「聞こゆ」や「覚ゆ」などがある。この語尾の「ゆ」こそが、インド=ヨーロッパ語で言うところの中動態の意味を担っていたと考えられる。
われわれがいま「動詞」と認識している要素が発生するよりも前の時点では、そもそも動詞と名詞の区別がない。単に、そのような区別をもたない言葉があったのである。
アリストテレス、トラクス、バンヴェニスト、デリダ、アレント、ハイデッガー、ドゥルーズ、スピノザといった哲学者や言語学者の話が出てくる。古代ギリシアから現代にいたる人類の長い歴史と脈々と続く思考の流れを感じる内容だ。
中動態という概念は、例えば近年の性的同意の問題や、京アニ放火事件の被告の成育歴と責任の問題を考える上でも有効だと思う。また、仏教の他力本願のことなども思い浮かんだ。
2017年4月1日、医学書院、2000円。
語感的には「教える」に対する「教わる」に似た感じですが、「覚える」に対する「覚わる」のほうは、完了≠竍存続≠ノ、ほんの少し自発≠混ぜたようなニュアンスで、うまく共通語訳ができません。
また「教わる」には「教われ」のような命令形が考えられますが、「覚われ」はかなり不自然で、実際ほとんどあり得ません。
「教わる」は、必ずしも行為者の明示を必要としない、中動態的表現のように思われます。
【例】私は(誰それに)英語を教わった。
「覚わる」も、ひょっとしたら中動態という補助線を引くことによって、何か見えてくることがあるかも知れません(まだ見えていません)。
「覚わる」の話、おもしろいですね。まさに中動態的な表現と言っていいと思います。調べてみると、愛知や岐阜周辺で使われているようですね。金田一秀穂氏が「教わる、具(そな)わると同じく“わる”に自然に身につく意味が含まれる“無意志”の言葉では」とコメントしていました。深掘りするといろいろ見えてきそうです。