大会の詳細については、「多磨」1940年9月号に報告が載っている。大会は第一回の信貴山(1936年)、第二回の高尾山(1937年)に続いて三年ぶりの開催で、参加者は100名を超える盛況だった。
1日目:自己紹介、多磨賞授与式、歌会、支部の状況報告
2日目:実作指導、記念撮影、講演(見沼冬男、穂積忠)
3日目:講演(北原白秋)、鎌倉見学、懇親会(日比谷松本楼)
開催地が鎌倉ということで、現地に住む米川稔は世話役を担った。3日目の昼食は鶴岡八幡宮の池の畔にある茶店に入った。
此処で供されたあじの寿司はまた、格別のものだつた。地元の世話役の米川稔氏は鎌倉中の寿司屋を試食して歩いた後漸く此の店に決めたさうだが、今更乍ら、同市の熱心で労を惜しまないことに対して感謝の念が湧いた。(鈴木杏村)
「鎌倉中の寿司屋を試食して歩いた」というのだから、何とも念入りな準備である。また、大会終了後の後始末についても、白秋が次のように絶賛している。
尚地元をはじめ在京の人々の行きとゞいた接待と斡旋とに対してその労をねぎらいたい。その中にも況して讃へておかねばならぬことは、医学博士米川稔ともあらう人が一同の退出を見送つてから、二三の女性と共に不浄場の清掃を虔ましく済ませて一足おくれて日比谷に駈けつけられたことである。而も氏はこの幽かしい陰徳については一言も語らなかつた。これこそ多磨の精神とするところのものである。
こうして大会は賑やかに幕を閉じた。
その一方で、「皇軍将士への黙禱」が行われるなど、徐々に戦時色も強まっていた。多磨賞の受賞者の一人であった宮柊二も、この時既に戦地に赴いていた。
翌1941(昭和16)年、三崎町の本瑞寺で予定されていた第四回多磨全日本大会は中止となる。第四回大会が開催されるのは、戦中・戦後の混乱期を経た1949(昭和24)年のことであった。
その間、1942(昭和17)年に白秋は病没し、1944(昭和19)年には米川稔が軍医として出征したニューギニアで亡くなった。そうした歴史を振り返ると、「第三回多磨全日本大会」は戦前の最後の輝きだったという印象を受ける。
日比谷松本楼はこれまた無縁で全く知りませんでしたが、現在も営業しているようですね。
ニューギニヤに戦(たたか)ひ死(じに)せる君の墓看(み)る人なくて立てる寂けさ
かつての日松本楼に別れせりいま詣で来ぬ君がみ墓に
第三回多磨全日本大会の松本楼の懇親会で別れたのが、永遠の別れになってしまったわけです。米川稔には子どもがなく、奥さんは戦後に再婚するなどして家を離れましたので、「看る人なく」の状態になっています。
「多磨」は毎月の歌会などで松本楼を頻繁に使っていたようです。例えば『全貌 白秋年纂第7輯(1939年版)』を見ると、
3月20日 多磨三月歌会に出席。
会場・日比谷 松本楼
出席者・64名
尚、同日松本楼に開催の詩歌懇話会相談会にも出席。
9月18日 多磨九月歌会に出席。
会場・日比谷 松本楼
出席者・49名
会後、有志にて出征会員松本千代二君壮行会を催す。
会場・日比谷 松本楼
出席者・21名
といった記事が数多く見つかります。
白秋が中国と松本楼の関係をどのように捉えていたのかはわかりませんが、この時期、白秋は戦争にも深く関わるようになっていきますね。
7月31日 ビクター「万歳ヒットラー・ユーゲント」及び、
日本文化中央聯盟の「大日本の歌」の吹込に立合ふ。
11月16日 軍人会館に於ける「愛馬進軍歌」審査会に出席す。
といった記事が増えていきます。
https://matsutanka.seesaa.net/article/387139045.html