日本人の頭脳にとって、表意文字は、生命感にあふれる一幅の絵なのだ。それは生きて、物をいい、身ぶりまでする。そして日本の街は、いたるところに、こうした生きた文字を充満させているのだ(…)
看板や幟や法被の背など、町のいたるところに「文字」がある風景にハーンは驚く。そして、漢字は「一幅の絵」だと感じる。当時は手書きの文字が多かったから、その印象はさらに強かったことだろう。
奇妙なその名前が促す想像とはうらはらに、この観音像の頭は馬の形をしているわけではない。御神体がいただく宝冠に馬の頭が彫られているのである。
「馬頭観音」という名前だが、別に馬の頭をしているわけではなく、頭上に馬の頭を載せているだけ。言われてみればなるほど、名前とズレがある。短歌で言うところの「発見」だ。
豆腐屋とは、大豆を凝乳状にして、見た目には良質のカスタードそっくりにしたもの、すなわち豆腐を売る店である。
短歌講座では、まっさらな目で物を見るようにと教えることがある。それは、何も知らない赤ちゃんや初めて日本を訪れたハーンの目のようなもの。「豆腐」を見慣れたものとしてではなく、まっさらな目で描くとどうなるか、ということなのだ。