ラフカディオ・ハーンが日本について記した最初の著書『知られぬ日本の面影』(1894年)から13篇を選んで収めた本。
流れるような美しい文章で、読んでいて心が落ち着く。最初は翻訳者の腕によるものかと思ったのだが、訳者は7名が別々に担当したものであった。つまり、元になったハーンの文章が美しいのだろう。
ハーンは1890(明治23)年4月に横浜に到着し8月に松江に赴任、翌年11月に熊本へ移るまでを過ごした。そのわずか1年あまりの出雲滞在中に、ハーンは日本の文化や歴史、人々の暮らしに対する深い理解を感じさせる数々の文章を記したのだ。そのことに驚かされる。
仏教には万巻に及ぶ教理と、深遠な哲学と、海のように広大な文学がある。神道には哲学はない。体系的な理論も、抽象的な教理もない。しかし、そのまさしく「ない」ことによって、西洋の宗教思想の侵略に対抗できた。
日本の家屋は、暑い時分には、すっかり開け放して風通しをよくする。窓代りともいえる紙の障子も、部屋と部屋の区分けに用いられる厚い紙で出来た襖も、夏には取り払われてしまう。
そもそも日本の庭園は花の庭ではない。植物の栽培を目的としている訳でもない。十中八九、花壇に類したものはない。緑の小枝らしいものがほとんどない庭もある。緑が全然なく、すべて岩と石と砂から出来ている庭もある。
明治20年代の出雲に残る昔ながらの日本の姿を描きつつ、ハーンはそれが文明開化に伴う西洋化によってやがて失われるだろうことも感じていた。
古風な出雲の町も、長い間の懸案だった鉄道が――たぶんあと十年を待たずして――開通すれば、膨張し、変貌し、月並みの町になって、この地所を工場や製作所の用地に転用せよと言い出すだろう。
日本をいとおしむようなハーンの筆致や眼差しには、失われゆくものに対する愛惜が込められていたのだろう。
名作です。
1990年11月10日第1刷、2010年12月6日第24刷。
講談社学術文庫、1200円。
10年以上前になりますが、私も松江の小泉八雲旧居を訪れたことがあります。ハーンは「日本の庭で」という文章で、この家の三つの庭の植物や石、池、生きものについて驚くほど詳細に描写しています。
その上で、「これらすべてが――古い家中屋敷もその庭も――永遠に消えてしまうのにそう長い歳月を要しないだろう。すでにわが家の庭よりも広くて美しい庭が数知れず田んぼや竹やぶに変ってしまった」と書いています。それが今も残っているのですから、本当に素晴らしいことですね。