その中に樺太の歌もあった。暁烏は1928(昭和3)年7月23日から28日にかけて樺太の大泊、豊原、知取、新問、泊岸、敷香などを訪れ、計69首を詠んでいる。
立枯(たちがれ)の林さみしき山焼けのあととしきけばなほもさびしき。
わぎもことかたらふ夢のさめぬれば身は樺太(かばふと)の汽車の中にあり。
ぱんを売るすらぶにものの言ひたさにいらざるぱんを買ひにけるかな。
ところどころ丸木ちらばりうちあげし鱒よこたはる砂浜ゆくも。
おろつこの部落に入れば大いなるむくげの犬のあまたをりけり。
歌集のあとがきには
私は歌人とならうといふやうな志願を起したことはない。だから、私の歌は、ただ好きな道だといふにすぎない。従ひて今の多くの歌人たちの前に出すには、あまりに粗野なものである。しかし、粗野なものでも、私の生活そのものを詠んだものなので、かはい子のやうな気がする。素人の歌だけに、玄人の方の味はれないところも持つてをることを自信してをる。
と記している。『樺太を訪れた歌人たち』では出口王仁三郎の樺太詠を取り上げたが、宗教家と和歌・短歌の結び付きというのは興味深いテーマだと思う。