広島に着任した寺田(寺田祐之知事)は、松島と同様に「日本三景」のひとつにうたわれた宮島に着目する。彼は、松島パークホテルを設計したチェコの建築家ヤン・レツルを広島に呼び寄せる。レツルは広島県物産陳列館とともに、宮島ホテルの設計も請け負うことになる。
広島県物産陳列館は今の原爆ドームのこと。ヤン・レツルが広島に呼ばれたのには、そうした流れがあったのか。
寒霞渓のある山は、応神天皇が岩に鉤を掛けて登ったという『日本書紀』の記述から、鉤掛山、あるいは神懸山と呼ばれていた。「神懸(かんかけ)」に「寒霞渓」という雅名を充てたのは、明治八年(一八七五)にこの地を訪問した儒学者・藤沢南岳である。
小豆島の名所「寒霞渓」の名前も明治に入ってからの比較的新しいものだったのか。
鳥観図の描写でも、黒い煙突が特に強調されて描かれていることが判るだろう。裏面の「今治市街」と題する写真も、工場を大きく写す俯瞰景である。天空に向けて煤煙を吐き出す煙突こそ、産業都市の象徴であるというわけだ。
林立する煙突が公害などのマイナスイメージではなく、工業化や産業の発展というプラスイメージで捉えられていた時代である。
1909年の森田草平の小説「煤煙」にも「煙が好(よ)う御座いますね。私、煤煙の立つのを見てると、真実(ほんたう)に好(よ)い心持なんです。」という台詞が出てくる。
大正11年(1922)に宝塚で上演された童話劇『春の流れ』にこんなセリフがありました。
モグラ「なんでも人間が仕事をする大きな工場が建つのださうだ。田も埋められた。畑もなくなった(略)鎮守の森も仕事場から吐き出す石炭の煙で黒く見えてゐた。ほんたうに淋しいお祭りであった」
たんぽぽの娘「それじゃ私達はもう一生この野原へ来られないのだね」
蛙の父親「知らない世界へ行くのも面白い。色々変った物が見られる事があるから」
(最後にレンゲ草の骸が流れてきて幕)
作者は後年日本学校歯科医会会長になった向井八門(本名喜男 1892〜1988)、同作は同時期に帝国劇場でも上演されています。
大阪の煤煙も大変だったようですね。私の知っているところでは、高安国世の人生にも大きな影響を与えています。「健康」は大正から昭和にかけての阪神間モダニズムのキーワードの一つでもありました。
1908年に阪神電鉄が出した『市外居住のすゝめ』という本に、高安国世の父で医師だった高安道成の「市外居住の利益」という講演が載っています。大阪に病院と家のある高安家が芦屋に別邸を構えたのも、そうした考えに基づくものでした。幼少期からぜんそくに苦しんでいた国世は、大阪ではなく主に芦屋で育ち、後に甲南高校に進学することになりました。
こんなふうに考えていくと、いろいろな話が一つにつながってきて、100年以上前の時代が甦ってくるようですね。