明治から昭和戦前期の地図や絵葉書、旅行案内などをもとに、瀬戸内海がどのように発展してきたのかを記した本。観光、文化、産業、都市、温泉といった様々な角度から、瀬戸内海の姿を描き出している。
吉田初三郎などが手掛けた鳥観図が数多く載っていて、図版を見るだけでも楽しい。
「瀬戸内海」というイメージが広く流布する大きな契機が、先の述べた瀬戸内海国立公園の制定であり、それに伴う近代的な観光開発の進展である。
「瀬戸内海」という広域の海面を表す概念は、日本を訪問した外国人が発見したものだ。近世の日本人は、和泉灘、播磨灘、備後灘、安芸灘、燧(ひうち)灘、伊予灘、周防灘のように、いくつかの「灘」に分けて海を把握していた。
なるほど、この指摘は目からウロコという感じだ。昔からそこに海はあったけれど、「瀬戸内海」が誕生したのは近代になってからのことだったのだ。
『瀬戸内海名所巡り』の表紙には、大阪商船の顔となった新型船の勇姿を描いたイラストを掲載している。同社がドイツ製ディーゼル客船「紅丸」を購入、大阪と別府を結ぶ航路に就航させたのは明治四十五年(一九一二)の春のことだ。
2000年から2001年にかけて、私は当時住んでいた大分と神戸を往復するフェリーにしばしば乗っていた。関西と大分を結ぶ路線がこんなに長い歴史を持っていたとは!
別府の名物「地獄めぐり」に関する話も出てくる。
明治四十三年(一九一〇)、「海地獄」の管理者が、湧き出る湯をのぞきに訪れた湯治客から二銭を徴収して名所として売り出す。これを嚆矢として、それまでの「厄介者」が温泉郷の名物となる。血の池地獄、坊主地獄、八幡地獄、紺屋地獄がこれに続き、公開を始める。
なるほど、「地獄めぐり」もまた近代になって生まれたものだったのか。古くからの伝統のように思われているものも、ルーツを探ると意外に新しいものなのであった。
血の池地獄の沈殿物から作られる「血ノ池軟膏」をその昔愛用していたのだけれど、今でも売っているだろうか。
2014年5月25日、芸術新聞社、2500円。
・「〇〇地獄」というのは、有馬温泉にも鳥地獄≠竍虫地獄≠ェありますね。
・別府と言えば、宝塚の機関誌「歌劇」昭和4年4月号掲載の「日本住宅株式会社」の広告に、阪急や大軌(現在の近鉄奈良線)沿線の分譲地に混じって「温泉別荘(別府) 五戸限特売 海岸鶴水園内景勝至便 高熱温泉四六時中浴槽に溢る」という宣伝が載っていました。現在はどうなっているでしょう。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
瀬戸内海と地中海の類似性は明治時代から言われていたようです。明治36年に大阪で内国勧業博覧会が開かれた際に、外国人向けに「瀬戸内海を地中海に例えつつ」「大阪から船を巡遊させて瀬戸内海で遊ばせよ」という意見が新聞に載ったとありました。
別府では当時、温泉付きの分譲地の開発が盛んだったようですね。「緑ヶ丘一帯三万坪を温泉付きの分譲地として、昭和八年(一九三三)に売り出す。共同浴場を中心に放射線状に配置した街路計画が特徴的だ」といった話が載っています。
宝塚関連(?)では、別府の鶴見園の話が出てきます。
【遊園の奥まった位置に収容人員六百人の大劇場を建設、「女優歌劇」の公演を行った。人気を博していた宝塚を意識したのだろう、鶴見園は「西の宝塚」「九州の宝塚」などとも自称した。のちに隣地に二千人を収容する大劇場を新築、】
当時の別府は温泉だけでなく瀬戸内海航路で関西とつながる「九州の玄関」としても発展したようです。今は新幹線や飛行機で九州へ行くことが多いので、その見方にはなかなか気づかないですね。
そう言えば大正時代に宝塚少女歌劇の別府公演があったなあと思い出し、調べてみところ、大正13年の11月に公演が実施されていました。当時まだ駆け出しだった小夜福子さんの手記には、神戸からまさにその「紅丸」に乗船し、甲板で輪投げや球抛げをし、食堂は貸切、余興場で管弦演奏のあと合唱をした、とあります。
高松港、松山の高浜港を経由して、翌朝10時半に別府港に着岸しましたが、夜中に船が揺れ、皆船酔いして大変だったそうです。
この時の演目の脚本が掲載された別府宣伝協会発行の「別府」という冊子をたまたま持っているのですが、裏表紙の裏に大阪商船株式会社の広告が載っていて、それによると紅丸の姉妹船≠ニして「紫丸」という船も就航していた模様です。
鶴見園の開園はこの翌年ですが、同冊子には「宝塚に倣ひ近く別府少女歌劇学校を開設する予定」とあり、ここで「女優歌劇」の団員を養成したようです。長々と失敬しました。
【また大正十三年九月、二代目となる紅丸が大阪桜島の大阪鉄工所で進水する。総トン数一五四〇トン余、長さ二百五十尺、船幅三十八尺の新造船は、一等船客三十八名、二等船客百八名、三等船客四百五十名を乗せて、最高速力一四・三ノットで走ることができた。紫丸と二代目の紅丸は、その美しさから「瀬戸内海航路の女王」などと讃えられた。】
と書かれています。大阪商船は昭和に入ると、さらに新造の「緑丸」「菫丸」も大阪・別府航路に就航させて昼夜二往復の運行を始めたとのこと。船の名前を色の名前で揃えているのが面白いですね。
【前の紅丸の如きは、就航当乗組員七十余名に対し乗客は常にその数にも満たざる有様】
【本社は極力乗客の吸集策を講じて堅忍し、其後紫丸を健造就航せしむる】
などと書かれていました。
蘆名事務長によると、この頃には瀬戸内航路だけではなく、福井県の女学校が修学旅行でチャーターすることもあったようです。
色とりどりの船名は、当時の様子があたかもカラー映像で甦るようですね。