「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」(放浪記)と書く芙美子と「石をもて追はるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ/消ゆる時なし」(一握の砂)と詠む啄木には、通じ合う部分が多かったのだろう。
明日の十二日は啄木の記念日だと云うのだけれども、啄木が生れた日なのか亡くなった日なのか、それさえわたしは知らない。読むにはどんな歌がいいだろうと、わたしはトランクから啄木歌集を出してあっちこっちめくってみた。
百年(ももとせ)の長き眠りの覚めしごと
呿呻(あくび)してまし
思ふことなしに
山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君をおもへり
こんな歌が眼にはいった。辛くなるような気持ちだった。
「田舎がえり」
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
雪が降っている。私はこの啄木の歌を偶(ふ)っと思い浮べながら、郷愁のようなものを感じていた。
「新版 放浪記」
ええめんどうくさい、「いくたびか死なむとしては死なざりし、わが来しかたのをかしく悲し」啄木の歌のせいでもないだろうけれど、いざ日本を遠く離れてみると、妙に涙っぽくもなって来る。
「下駄で歩いたパリー」