2023年11月06日

啄木の「かな」問題

先日、大阪歌人クラブの秋の大会で「啄木短歌の超絶技巧」という講演を行ったところ、参加者の方から「啄木の歌には「かな」が多く使われているが、どう思うか?」というご質問をいただいた。

その問題について、少し考えてみたい。

会の終了後に安田純生さんから、桂園派の歌には「かな」が多く使われていると教えていただいた。

大空のみどりになびく白雲のまがはぬ夏になりにけるかな
一むらの氷魚かと見えて網代木の浪にいざよふ月の影かな
/香川景樹

桂園派の歌人に「けるかな」が多いことについては、当時から批判や揶揄があったらしい。「けるかなと香川の流れ汲む人のまたけるかなになりにけるかな」という狂歌が詠まれたりもしている。

気の変る人に仕へて
つくづくと
わが世がいやになりにけるかな

子を負ひて
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな

/石川啄木『一握の砂』

啄木の歌には「けるかな」も「名詞+かな」も多い。
桂園派の歌からの影響という線については、今後調べてみたい。

もう一つ思ったのは、蕪村との関連である。
啄木は一時期、蕪村の句集を愛読していた。

楠の根を静にぬらすしぐれ哉
山は暮て野は黄昏の薄哉
狩衣の袖のうち這ふほたる哉
/蕪村

蕪村に「けるかな」は見当たらないが「名詞+かな(哉)」は頻出する。こちらも、今後の検討課題としよう。

posted by 松村正直 at 22:37| Comment(0) | 石川啄木 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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