このところ鷗外が気になって仕方がない。
著者の小堀杏奴は鷗外の次女(1909−1998)。
父は何時も静かであった。葉巻をふかしながら本を読んでばかりいる。子供の時、私はときどき元気な若い父を望んだ。自分の細かいどんな感情をも無言の中に理解してくれる父を無条件で好きではあったが、父はいつでも静かだったし、一緒に泳ぐとか走るとかいう事は全然なかった。
父は物事を整然(きちん)と整理する事が好きだった。私たちが何か失くしたというと、
「まず」
といってから、そのものには全然関係のない抽出からはじめて、一つ一つゆっくり整頓して行った。/すっかり整然と片付けてゆくと、また不思議になくなったと思うものも出て来た。
不律が死に、残った姉までが既(も)う後廿四時間と宣告された時、父は姉の枕許に坐ったまま後から後から涙の零れるのを膝の上に懐紙をひろげてうつむいていると、その紙の上にぼとぼとと涙が落ちる。/廿年近い結婚生活の中で、父の涙を見たのはこの時が初めてでそしてまた終りであったと母は言っているが、その時は吃驚して父の顏ばかり見ていたそうである。
どの文章からも鷗外の姿がなまなましく浮かび上がる。回想の甘やかさと懐かしさと不確かさ、そして父に対する愛情が混然一体となって、独特な味わいを醸し出している。初出は与謝野寛・晶子の雑誌「冬柏」で、与謝野夫妻のプロデュース力はさすがなものだ。
この本は、1936年刊行の『晩年の父』に1979年発表の文章を「あとがきにかえて」として追加して一冊にまとめている。
・「晩年の父」(1934年執筆)
・「思出」(1935年執筆)
・「母から聞いた話」(1935年執筆)
以上は『晩年の父』(1936年)収録
・「あとがきにかえて」(1978年執筆)
(原題は「はじめて理解できた「父・鷗外」」)
つまり、25〜26歳の頃に書かれた文章と69歳の時の文章が一緒に収められていることになる。そこに年齢的な変化があるのはもちろんだが、それ以上にキリスト教への入信が大きな影響を与えたことが見て取れる。
鷗外47歳の時に生まれ13歳で父と死に別れたこと、鷗外と後妻の志げとは18歳の年の差があったこと、嫁姑の仲が良くなかったことなど、家族というものについてあれこれ考えさせられる内容であった。
他の子どもたちの書いた本も読んでみようと思う。
1981年9月16日第1刷、2022年7月27日第18刷。
岩波文庫、600円。