子規の短歌は俳句の革新は、結核が強いた現実や生理と無関係ではない。しかし、彼は意味≠ニしての結核とは無縁なままであった。『病牀六尺』は苦痛を苦痛としてみとめ、醜悪さを醜悪さとしてみとめ、「死への憧憬」のかわりに生に対する実践的な姿勢を保持している。
徴兵制についてはしばしば否定的に言及されることはあっても、学制それ自体が問題にされないのは奇妙というほかはない。それらが並んで出てきたことの意味が考えられたことがないのだ。それらが「富国強兵」の基礎として実施されたことはいうまでもないが、そこにはもっとべつの意味がある。
江戸時代の画が「写実」的であったとしても、それはわれわれが考えるような「写実」ではない。なぜなら、彼らはそのような「現実」をもっていないからであり、逆にいえば、われわれのいう「現実」は、一つの遠近法的配置において存在するだけなのである。
ネーション=ステートが成立した後には、それ以前の歴史もネーションの歴史として語られる。すなわち、ネーションの起源が語られる。しかし、ネーションの「起原」は、そのような古い過去にあるのではなく、むしろそのような古い体制を否定した所にこそ存在するのである。ところが、ナショナリズムにおいては、まさにそのことが忘れられ、古い王朝の歴史が国民の歴史と同一化されるのだ。
和歌革新運動と近代短歌の成立について考える際にも、パレスチナとイスラエルの紛争を考える際にも、おそらくこうした角度からの分析が必要になってくるのだと思う。
2008年10月16日、岩波現代文庫、1200円。