小さなころは体が弱く性格もわがままだったので、母にはずいぶんと心配や迷惑をかけた。両親は不仲で高校生の時に離婚したが、母はタクシーの運転手をしたり互助会の営業をしたりして、私たち兄弟を育ててくれた。世間的に見れば貧しい家だったが、貧しさをあまり意識せずに過ごすことができたのは母のおかげだ。
大学を卒業してフリーターになったときも、母は反対しなかった。好きなように生きればいいと言ってくれた。ただ、自分の稼ぎで食べていけるようになりなさいと注意してくれた。
私が会社勤めでなかったこともあって、母とはよく一緒に旅行した。輪島、湯布院、天売島、焼尻島、トマム、三保松原、京都など、思い出の場所がたくさんある。それが、せめてもの親孝行だったかもしれない。
母は会うたびにいつも「短歌で食べていけてるの?」と尋ねていた。「大丈夫、ちゃんと稼いでるよ」と言っても、あまり納得してないようだった。母は自分の人生に満足していたし、何の悔いもなかったと思う。でも、最後まで息子として母を安心させることはできなかったなという思いが残る。
さようなら、お母さん。
力落とさず、お過ごしください。お節介ながら、失礼しました
危篤の連絡を受けて東京の病院へ駆けつけ、到着して間もなく亡くなりました。間に合って良かったです。
素晴らしい歌人を産んでくださったお母さんに感謝いたします。
良い人生だったろうと思います。
台風の前に東京のお母さまのところにいらっしゃることができたのは、本当にご不幸中のせめてもの幸いだったのではないでしょうか。
晩年まで活動的でエネルギッシュなお母さまでいらっしゃったと拝察いたしております。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
母は65歳で山梨に家を買って、畑で野菜を育てたり、鶏を飼って卵を採ったりと、思い通りの人生を歩んでいました。犬や猫もいて賑やかな家でした。地域の皆さんにも親切にしていただき、幸せだったと思います。