『新古今和歌集』に結実した流派(九条流)は、旧来の『古今和歌集』の歌ぶりに立つ者たちにとっては、新奇を狙うわけのわからないものに映っていた。それゆえ、新しく流行りはじめた禅宗の開祖の名をとって「達磨歌」と揶揄した。
中国では、初唐、盛唐の詩を重んじる『唐詩選』は、ほとんど見むきもされない。漢詩の古典を代表するのは、南宋の周弼により編纂された中唐、晩唐の詩を多く集めた『三体詩』である。
漢詩も古典語の世界だった。が、公安派は、当代の語を用いることを主張し、のちの白話詩を準備した。日本の漢詩の世界に、この動きが興ったことによって、香川景樹が和歌に当代語を用いてよいとし、調べを重んじる桂園派を興した、とわたしは推測している。
「定家仮名遣い」もそうだが、「契沖仮名遣い」は、それよりも、一般的には、ひろがらなかった。町人むけの版本などには参考にされなかったという意味だ。時代が下るにしたがって、いわゆる変体仮名の使用などが盛んになり、仮名遣いは乱れに乱れる。
日本語についての研究らしい研究は、国語学がはじまる以前に、江戸時代の「国学」で行われていた。「国学」をはじめた人びとは漢文によく通じていた。本居宣長が、白文で書かれた『日本書紀』は、最初から「訓読」されてきたと主張するまで、誰もそうは思っていなかった。
とにかく博学で、ものの見方が多面的でおもしろい。和歌革新運動や短歌における口語・文語の問題なども、こうした幅広い視野に立って考える必要があるのだろう。