日本文化論の立場から日本語について考察した本。歴史や文化や政治など多様な観点を踏まえて、日本語について問い直している。
話題が次々と展開して著者の頭の回転についていけない部分もあるのだが、刺激的な本であるのは間違いない。近代国民国家の枠組みで築かれた日本語についての常識を次々と揺さぶってくる。
森鷗外や夏目漱石をはじめ、明治の知識人はかなり立派な漢文が書けた。実は明治時代は、日本の歴史のなかでも最も漢詩が盛んな時代だった。
「ヤマト言葉にこそ、日本人の心が宿っている」というのは、ある意味では、とても近代的な考え方だ。
神仏が出てこない能など、わずかしかない。能は宗教芸能だったからだ。それなのに、すばらしい演劇だとか芸術だとかいう。もちろん、そういってもよい。近代的コンセプトをズラしていることをよく承知してさえいれば、である。
文字をもたなかったヤマト民族が漢字を借りてヤマト言葉を書くようになったというストーリーを想い描くのは、世界のどの地域も、まず無文字状態があり、そこからしだいに文字文明が発達してきたかのように見る考え方だ。
天皇が歿したのちには、中国風と和風のふたつの名前をもつ習いだった。桓武は中国風で、和風は日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてらすみこと)である。この天皇の諡号が、中国語と日本語の二重性をもつ日本文化のあり方を象徴していた。
まだまだ引きたい箇所はたくさんあるけれど、今日はこのあたりで。
2011年5月13日、平凡社新書、900円。