2023年07月27日

宗像和重編『鷗外追想』(その2)

古い文章を読んでおもしろいのは、現在の見方や価値観とは違う内容が記されているところかもしれない。

例えば、観潮楼歌会についての北原白秋の書いた「千樫君と私」には、

その頃のアララギは歌壇的勢力からいうと、いまのアララギのみを見ている人から思うと、それは想像外に微々たるもので、私などもそれまでの左千夫さんの存在も知らなければ、アララギと云う雑誌を一度も見たことがなかったのです。

とある。明治40年頃の話だ。これを読むと初期の「アララギ」はごくごく小さな勢力であり、短歌の新しい時代を切り拓いたのは圧倒的に「明星」の力であったことがわかる。この文章が書かれたのは昭和2年なので、別の言い方をすれば大正期に「アララギ」が勢力を急拡大したということだろう。

また、岡田正弘「大正十年二月十四日の晩」には、鷗外が文壇を離れた大正7年頃の話が出てくる。

その頃鷗外の著書は既に新刊書を売る店には無かった。菊判の全集が出たのは先生の歿後であるから、わたくしは鷗外の著書やその作品の載ったスバル、三田文学等の古雑誌を求めてあたかも逢引の如き心のときめきを感じながら、本郷、神田から場末の古本屋に至るまで一軒一軒と尋ね歩いた。

鷗外の亡くなるのは大正11年のことだが、その晩年には既に鷗外の著書は本屋にはなく、古書店で買うしかなかったのだ。今では漱石と並ぶ二大文豪という扱いを受けている鷗外だが、生前はそうでもなかったということだろう。

最後に、大阪毎日新聞社長の奥村信太郎「追憶の森鷗外博士」から。

わたくしの従事している大阪毎日新聞社では、ライヴァル・ペーパーである朝日新聞が夏目漱石氏を迎えて紙価を高からしめているので、何とかしてこれに対抗する文芸の大家を聘しようと、いろいろに焦慮した。

これを受けて、鷗外は大正5年から6年にかけて新聞に「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」といった史伝物を連載する。けれども、新聞社の求めたのは購読者を増やしてくれるような人気の出る小説であった。

有態にいうと当時かかる読み物は、新聞紙上において大衆から余り歓迎を受けられないのであったが、わが社は執拗にこれを続けて行った。そしてわたくしは何か別に創作をお願いしたのであったが、博士は伝記物に興味を持たれていて、終にわが社には一篇の創作すら掲載することなくして、美術院長に任ぜらるると同時に、わが社を辞されたのであった。

事情や背景がよくわかるだけに、何だか読んでいるうちに鷗外が可哀そうになってくる。

2022年5月13日、岩波文庫、1000円。

posted by 松村正直 at 08:41| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。