14歳で上京した茂吉がまず住んだのは浅草であった。「浅草医院」を開いていた斎藤紀一方に寄寓したのである。
その頃の浅草観世音境内には、日清役平壌戦のパノラマがあって、これは実にいいものであった。東北の山間などにいてはこういうものは決して見ることが出来ないと私は子供心にも沁々しみじみとおもったものであった。(「三筋町界隈」)
こうした少年時代から戦後の最晩年に至るまで、茂吉と浅草観音には深い結び付きがあり、歌にもしばしば詠まれている。
あな悲し観音堂に癩者ゐてただひたすらに銭欲りにけり
『赤光』
みちのくより稀々(まれまれ)に来るわが友と観音堂に雨やどりせり
『ともしび』
浅草の五重の塔をそばに来てわれの見たるは幾とせぶりか
『石泉』
浅草のみ寺に詣で戦にゆきし兵の家族と行きずりに談(かた)る
『寒雲』
浅草の観音力(くわんおんりき)もほろびぬと西方(さいはう)の人はおもひたるべし
『つきかげ』
最後の歌は茂吉が戦後に疎開先から東京に戻って詠んだ「帰京の歌」(1948年)に入っている。この「観音力もほろびぬ」とは、どういうことを意味しているのだろうか?
塚本邦雄の本は次回ちょうど引用する予定でした。この塚本の解釈にちょっと異議を述べたいというのが、そもそもの目的なのです。引き続き、お読みいただけましたら幸いです。