十七世紀には武家や町人など、公家ではない人々が歌人となり、独自の歌壇を形成していった。いわゆる地下歌人による地下歌壇の確立である。地下歌人にはいくつかの流れがあったが、そのなかでも大きな勢力となったのが、細川幽斎から歌学の教えを受け、古今伝授を授けられた松永貞徳(一五七一〜一六五四)の門流であり、貞徳門流を中心に、地下歌人のあいだでも地下伝授と呼ばれる古今伝授が行われた。
近世は身分階層社会であり、女中も当時の男社会と同様であった。上級の女中は多くは武家、一部は京都の公家や社家などの出身であり、炊事、掃除、風呂焚きなどは絶対にせず、それらは町人・農民階層出身の女中の仕事であった。上級女中の主たる仕事は、大名・旗本の妻女の、いわゆるお相手、お世話をするのがその任であった。
真淵没後、県門は歌論・歌学上の観点から、晩年の真淵の理想を継承して『万葉集』を重んじた万葉派、『新古今和歌集』を理想としつつ今体と古体との詠み分けの立場をとる伊勢派(本居派)、過度な尚古主義とは一定の距離を置いたうえで『古今和歌集』を含む三代集を規範とし、詠者の作為を排した真情と詠歌の雅趣とを追求した江戸派とに分岐したとされる。
天皇と国学の関係を示すものとして御歌所がある。明治四(一八七一)年一月、福羽美静が歌道御用掛に任ぜられ、以降、八田知紀や本居豊頴、近藤芳樹、高崎正風等が宮中へと登用される。歌道御用掛は、一八七六(明治九)年に「皇学」と「歌道」を担当する文学御用掛へと改称され(一八八六年に廃止)、一八八八(明治二十一)年の御歌所設置へとつながっていった。
義象らによる『国学和歌改良論』を皮切りに、明治二十年代以降、国学やその周辺領域がさまざまな展開を見せていった。(…)古典講習科で学んだ落合直文(一八六一〜一九〇三)は平田派が軽視した歌会を重視すべきなどと述べ歌学革新を志し、佐佐木信綱は『万葉集』の研究と普及に尽力した。
他にも引きたい箇所がたくさんあるのだけれど、とりあえずこれくらいにしておこう。和歌・短歌の歴史を考えるには、まず国学を知らないと始まらないようだ。
2022年3月20日、ぺりかん社、2200円。