従来の新聞やテレビに加えて、ネットやSNSという圧倒的なメディアが生まれた今、私たちは溢れる情報から何を選び取ればいいのか。
誰もがメディア・リテラシーを身につけるとともに、個人として主体的に生きていくことがますます大切になってきている。
メディア関係者の多くは、内心は明確な規制がないことを怖れている。規制が欲しくなる。だって規制の内側にいれば安全なのだ。
なぜ日本人は集団と相性がいいのか。規律正しいのか。マスゲームなど団体行動が得意なのか。世間とは何なのか。試合終了後にみんなでゴミを拾うのか。こうした考察は、日本人とは何かを考えることときっと重複する。
もしもあなたが、サッカーが大好きならば、ネットやSNSを見ながら、世界中の人はサッカーが大好きなのだと、いつのまにか思ってしまう。だからサッカーにまったく興味がないという人に会ってびっくりする。こんな人がいるのかと。いるよ。たくさんいる。SNSをフィルターにしてあなたの視界に入っていなかっただけだ。
容疑者はメディアが使う言葉だ。司法の場では容疑者ではなく被疑者という言葉を使う。どちらも同じ意味だ。正式には被疑者だが、言葉で発音したときに被疑者と被害者は混同しやすいとの理由で、メディアは容疑者とアナウンスする。
「我々」や集団の名称を主語にせず、「私」や「僕」などの主語を意識的に使うこと。たったこれだけでも述語は変わる。変わった述語は自分にフィードバックする。
青少年向けにわかりやすく書かれた本だが、著者の主張や危機意識は十分に伝わってくる。現代の日本社会において集団に流されず個人として生きるのは、とても難しい。
2023年3月10日、ちくまプリマ―新書、840円。