「短歌革新によって生まれ、その後も多くの力量ある歌人の実作の蓄積を通じて築かれてきた、そしてそれらを手本にしながら歌を作り発展してきた短歌の在り方そのものが大きな変化を迎えているんじゃないだろうか」(島田)という問題意識に立って企画されたディスカッションである。
内山の写生に関する指摘や分析が非常に鋭い。
言葉というのは細かい単位での調節ができないので、物事を写すには不適な道具なんではないかなと思います。言葉は物事を写生するにはサイズがでかすぎるというのが一応私の今考えている所です。
写生ってやっぱり前面特化型の表現様式だと私は思っていて、基本的に背後がないんですよ。後ろ側がない。あるとすれば気配とか、その触覚ですか。そういうものでは捉えられますけれども、基本的に、写生というのは前のものをどう写し取るか。
(吉川宏志『石蓮花』の〈自販機のなかに汁粉のむらさきの缶あり僧侶が混じれるごとく〉について)
前面特化型でありながら、こういう比喩を使うことによってそこに立体感っていうものを生み出している。これ、写生の進化のひとつではないかなと思います。
この「前面特化型」というのは、たぶん視覚重視、視覚偏重ということなんだろうと思う。五感のうち嗅覚や聴覚も背後のものを捉えることができるけれど、視覚は前のものしか見ることができない。
他の3人の印象的な発言を引く。
(花山)日露戦争後の若い歌人は、短歌というものに対して、他の文学ジャンルの中でとても限定的なかすかな詩型にすぎないと思っていて、そこに容れるものもささやかというか。啄木は短歌を「一瞬の切れ切れの感想」と言ってるし、白秋は「一箇の小さい緑の宝玉」と言う。対極に見えて、限定論というんですか、その認識と内容が釣り合った完成度がある時期といいますか。
(島田)短歌が文語による優れた歌、時には調べを伴って美しく、また時には散文的な伝達も可能な文語を作った、ということが文語が生き延びた理由だと思います。短歌があったために、文語が世の中の一部ですけど、残り、もっと言うと近代文語がこれによって生まれたと思っています。
(今井)比喩的にいうと、写生・写実っていうのは近代短歌の中の標準語みたいな感じでとらえています。けれど、その標準語の外側には、無数の方言とか、それぞれの日常語とかがあるわけ。それが短歌の現場ではやっぱり時々、ふっ、ふっと、吹き出す。それがわたしには面白い。ペロンと平板な短歌史ではなく厚みが感じられます。
「近代短歌の特質がよく表れている作品」5首を各自が挙げているのだが、4名ともに選ばれているのは啄木ただ一人。
内山選 佐藤佐太郎、木俣修、斎藤茂吉、北原白秋、石川啄木
今井選 正岡子規、窪田空穂、石川啄木、前田夕暮、岡本かの子
花山選 若山牧水、石川啄木、北原白秋、斎藤茂吉、前田夕暮
島田選 与謝野寛、石川啄木、三ヶ島葭子、古泉千樫、佐藤佐太郎
啄木ファンとしてはもちろん嬉しい。それにしても、この啄木の強さっていったい何なんだろう。
「分かりやすさ」は間違いなく啄木の強さの一つでしょうね。刊行から100年以上経った今でも普通に読めるのですから驚きます。同時代のほかの歌集や小説などと比較すると、その差は明らかです。
一方で、「分かりやすさ」だけでは歌として残らないので、そこに奥深さや印象の強さもあるのでしょう。その両立がどのようにして可能になったのかに興味があります。