著者は子どもの頃から地元にある秋芳洞は「東洋一の鍾乳洞」だと教わって育ったのだが、ある日、別の鍾乳洞も「東洋一」を名乗っていることを知る。そこから「東洋一」をめぐる調査と考察が始まった。
そもそも、東洋の範囲はどこまでか。東洋一は誰がどのように決めるのか。調べるほどに謎が多く、はっきりした定義のない世界に迷い込んでいく。東洋一には「といわれる物件」が多いとの指摘が鋭い。
自らは宣言していないものの、「東洋一といわれる」と他から称された形をとるもの。東洋一の中では最大のジャンルとなっているようだ。ただし、いったい誰に「いわれた」のかハッキリしないのが特徴。もうほとんど民間伝承のようになているものもある。
こんなふうに文章も軽快で面白くクスクス笑いながら読めるのだが、その奥は深い。「東洋一」には、日本の近現代史が色濃く関わっていたのである。
かつて「東洋」という言葉には威厳があった。ロマンがあった。カッコよかったんだと思う。カッコいいから、大正〜戦前にかけて、企業、団体などに「東洋」の名前をつけることが流行した。
そう言えば、子どもの頃は「広島東洋カープ」と言っていた。1920年創業の東洋コルク工業が1927年に東洋工業に改称し、1983年にマツダになったのであった。なるほど。
日本は、世界の中では「西洋」というコンプレックスに悩み、東洋の内部においては「中国」というコンプレックスに悩み、なのに「東洋の代表者」という立場で、西洋に対峙しようとした。(…)おそらく、「東洋一」とは、こうした環境の中から生まれてきた言葉なのだ。
身近な疑問から出発して、さまざまな調査を重ね、納得のいく結論に到達する。民俗学や社会学の本と言ってもいいのかもしれない。
2005年5月20日、小学館、1300円。