日本の歌が叙情や生命力を失いつつあるという危機意識に立って、歌謡曲、演歌、短歌、浪花節、平家物語、釈教歌、和讃、今様、瞽女唄、童謡など、さまざまな「歌」について考察した本。
取り上げられるのは、美空ひばり、尾崎豊、小野十三郎、折口信夫、俵万智、春野百合子、小林秀雄、古賀政男、阿久悠、西行、石川啄木、道元、親鸞、小林ハル、西條八十、北原白秋など。
むしろ現代の短歌こそ、じつは通俗と大衆趣味のなかに低迷しているのではないか。短歌の叙情とは似ても似つかぬ、たんなる乾いた言葉の断片と化しているような歌なら、いくらでも拾うことができる。
短歌的叙情の否定、とりわけて叙情的なものへの敵意、伝統的なリズムへの引きつるようなアレルギー……、それが現代短歌がその上を歩もうとしている乾燥し切った舗道の地盤を支えている観念の共鳴版である。
こうした現代短歌に対する批判は、かなり独断的な内容ではあるけれど、考えてみる必要のある問題だろう。もちろん、17年前の本なのでさらに状況は変化していると思う。
中世は聴覚の時代だったのである。そういえば、わが国においても十三世紀の親鸞は「聞法」ということを強調していた。(…)近代に近づくにつれて、聴覚の世界にたそがれが訪れる。疑い深い眼差しに彩られた視覚の時代がしだいに浮上してくるからだ。
これは道元の場合にかぎらないのだが、出家僧が詠んだ歌の領域を「釈教歌」の枠組にとじこめ、それを手すさびの余技と位置づけ、そのことで、歌のリズムやイメージがもつ生命の明らかな形を見失ってきたのではないかということだ。
そもそも日本の歌謡や芸能は、琵琶や筝曲の歴史をみてもわかる通り、盲人抜きには語れない。
本書の一番の魅力は、このように時代やジャンルを超えて縦横無尽に「歌」を捉えているところだろう。短歌について考える時にも、こうした広い視点は大切だと思う
2006年8月10日、中公叢書、1500円。
「(新聞・雑誌の歌壇に登場する短歌は)叙情の旋律がほとんど聞こえてはこない」「言葉の断片が、そこに散文的に並べられているだけ」というのは、ある時期まで私が現代短歌に対して一方的に抱いていた偏見そのものです(今はそんなことはありません)。
以前浪曲の仕事をしていた時に春野百合子師匠にお世話になったなあとか、大学時代光田和伸先生の蕪村の授業を受けたなあとか、いろんなことを思い出しました。私が学生だった40年前はキャンパス内に学生運動の残滓がまだ残っていて、森有正先生がおっしゃるように、確かにアジテーションは「五五調」でした。
あらゆる角度から、短歌が「歌」であることをあらためて再認識した一冊でした。あまりにも駆け足で読んだので、もう一度きちんと読み直したいと思います。
ずっと積ん読状態で放置してあったのですが、読んで大きな刺激を受けました。まさに、短歌が「歌」であることを再認識させられたという感じです。普段は短歌は短歌という狭い視野で見ていることが多いものですから。
光田和伸さんは面識はないのですが、かつて「塔」の編集をされていた時期があります。『高安国世全歌集』の年譜や解題、索引なども光田さんの担当されたもので、私も大きな恩恵を受けました。