副題は「塔の眺めと〈近代〉のまなざし」。
明治・大正期の浅草にあった凌雲閣(通称「十二階」)に関する本。単に歴史的な事実を述べるだけでなく、塔の上からの眺めや塔を見上げる眺めなど、近代のまなざしのあり方やその変遷について深い考察を記している。
凌雲閣からの「望み」は、まさしく二つの「望み」、まなざしと欲望を兼ね備えていた。そしてことばは、所有の欲望を喚起した。
私たちは、あるメディアから次のメディアへと単に発展的に移行しているわけではない。メディアを移行することで、何かを忘れ、何かを失うのである。
パノラマのリアルさは、単に絵が写実的であるがゆえに生まれるのではない。むしろ、見る側が積極的に奥行きを生み出していくがゆえに生まれる。
これは、短歌におけるリアルや写実を考える上でも大事なポイント。読者の能動性や参与を引き出すことが、歌のリアルには欠かせない。
凌雲閣とゆかりの深い啄木に関する話も多く、多くの学びを得ることができた。
2011年9月10日、青土社、2400円。
残念ながら凌雲閣に昇ったという話はありませんでしたが、大正10年新館落成時の三越日本橋本店に招待され、高塔≠ゥら東京全市を見渡すと、海を思わせる一面の灰色の瓦屋根が望まれて、往時の武蔵野の茫漠たる薄ヶ原が想起されたという内容の記事がありました。浅草十二階からの眺望も、こんな感じだったのではないかと思います。
パノラマは仕組みや構造は何となく知っているのですが、実際に中に入ってみた感じが今ひとつ想像できません。それだけに館内の匂いや空気感などイメージが広がります。
今日リアルな絵あるいは超リアルな世界であっても、CG画像や映像によって疑似体験できてしまいますが、所詮それらはCG製作者のイメージの域を出るものではなく、受け手がイマジネーションを働かせる機会が奪われているように思います。
三越に関しては、この本でも言及がありました。大正3年に凌雲館のエレベーターが再稼働した時の話です。
「同じく大正三年にエレベーターが設置された場所がもう一つある。それは三越だ。三越をはじめとする百貨店は、その豪華さだけでなく、垂直移動の演出においても十二階の脅威になりつつあった。」
三越本店の新館の最初の竣工が、この大正3年だったようですね。
あと、現在では「パノラマのような景色」といった比喩としてのみ用いられる「パノラマ」に関しても、この本はかなり詳しく書いてます。著者は実物のパノラマを体験するために、ヨーロッパで保存修復されているパノラマ館をわざわざ見に出かけてます。ワーテルロー(ベルギー)、シュヴェニンゲン(オランダ)、トゥーン(スイス)、ブルバギ(スイス)。現代でも実物が見られるとは知りませんでした。