副題は「わが精進十二ヵ月」。
もうずいぶん昔に読んだことのある本だが、このところ料理について考えることが多いので再読した。版を重ねているだけあって、実に味わい深い本だ。
9歳で禅寺に入って精進料理を覚えた著者が、軽井沢の山荘暮らしで作る料理を一月から十二月まで季節を追って紹介している。
何もない台所から絞り出すことが精進だといったが、これは、つまり、いまのように、店頭へゆけば、何もかも揃う時代とちがって、畑と相談してからきめられるものだった。ぼくが、精進料理とは、土を喰うものだと思ったのは、そのせいである。
道元さんという方はユニークな人だと思う。「典座教訓」は、このように身につまされて読まれるのだが、ここで一日に三回あるいは二回はどうしても喰わねばならぬ厄介なぼくらのこの行事、つまり喰うことについての調理の時間は、じつはその人の全生活がかかっている一大事だといわれている気がするのである。
ぼくが毎年、軽井沢で漬ける梅干が、ぼく流のありふれた漬け方にしろ、いまは四つ五つの瓶にたまって、これを眺めていても嬉しいのは、客をよろこばせることもあるけれど、これらのぼくの作品がぼくの死後も生きて、誰かの口に入ることを想像するからである。
読んでいると、時々、読者に向けて語り掛けてくるところがあるのも面白い。
みょうがは、私にとって、夏の野菜としては、勲章をやりたいような存在だが読者はどう思うか。
これが水上流の大根の「照り焼き」だ。いちどやってみたまえ。物事は工夫ひとつだな、ということがわかってくる。
調理風景や料理を撮影したモノクロ写真も随所に差し挟まれている。どれも美味しそうだ。
1982年8月25日発行、2021年10月20日第30刷。
新潮文庫、550円。
それはそれとして、私もみょうがには勲章をあげたいと思います。二十歳の夏、御嶽山の山小屋でアルバイトしていた時、さばいたばかりのコイとみょうがの味噌汁は、こんな旨いものがこの世にあるのかと思いました。
その山小屋―黒沢口六合目中の湯―は数年前に解体されて跡形もありません。
山小屋でのアルバイト、大変だけれど楽しそうです。「中の湯」で検索したら、かつて営業していた頃の写真などが見つかりました。昔ながらの素敵な山小屋だったようですね。