単行本未収録のエッセイ・論考・講演・対談などを収めた散文集。生前に本人が準備していた内容をもとに、死後にまとめられて刊行された。
生前の岡井さんとは全く交流がなかったが、歌集や評論集はよく読んでいる。本棚を数えて見たら、岡井さんの著書は44冊あった。一番多いかもしれない。
写実系のエコールが桜を特別扱ひしないことは始めに言つた。事実、赤彦にも茂吉にも文明にも、またあんなに名所の歌を作つた憲吉にも、桜の秀歌といふものはない。第一、桜の歌そのものが、少いか、ほとんど無いのである。
キリスト教の賛美歌にはいろんな形がありますけれども、基本的な歌詞の選び方には和歌や歌謡の影響がすごく強いです。つまり仏教の釈教歌というものがずっと伝わっていて、その言葉をかなり取り入れている。
時評などは(わたし自身も、その例に洩れないが)つい、一方的に評価して書いてしまう。実は、後になって、「あの時の評価は違うな」と思い返すことがある。ということは、他人が評価した意見を、たやすく鵜呑みにしてはいけないということでもある。
このごろ、修辞(レトリック)について、その冴えをいやがる言説をきくことがあるが、どんなに素朴にみえている歌でも、人を打つ歌には、それなりのレトリックが物を言っているのであって、そもそも修辞を馬鹿にしていたら、一首の歌といえども成功しない。
(香取)秀真は、子規の死後も、歌人であった。しかし、「アララギ」が置き忘れてきた歌人たちの一人であった。短歌史は、子規の弟子の中でも、伊藤佐千夫、長塚節をクローズアップした方向に進んだ。書かれた歴史が、いかに多くの人を置き忘れるか、忘却してしまうか、というのは、一般に〈歴史〉の特質といっていいが、短歌史の場合も同じである。
どこを読んでも含蓄に富んだ内容ばかり。文体にも味わいがあって、いくらでも読めるし、もっと読みたくなる。でも、もう新しい散文が書かれることは永遠にない。
2022年8月10日、書肆侃侃房、3000円。