「現代短歌」2018年5月号から2019年7月号まで連載された文章に加筆・修正をして文庫化したもの。
読書日記の体裁を取りつつ、幅広いジャンルの本を取り上げて、鋭い文芸批評を展開している。
印象に残った部分をいくつか。
最近、いい歌といい歌集というのはかなり別のものだ、ということをよく考える(もちろん、いい、の基準もまたそれぞれだ、ということは踏まえた上で、いったん、さておき)。
一首のなかに時間の経過を詠みこむと短歌は秀歌になりやすいが(短歌の場合、連作や歌集単位でも基本的にはおなじことが言えると思う)、花火、噴水、エレベーターなどは、単語単位でその効果が狙えるからではないだろうか。
短歌というのは案外長いものである。あってもなくても良いようにみえる言葉こそが歌の出来を決めることは多い。短歌の冗長さを利用している歌の場合は、それこそが心臓になる。意味内容などは肝にならない。
岡井隆の発明はたくさんあるが、そのひとつは加齢を許す文体の発明であったと思う。塚本か岡井か、この評価の時代による変遷、そして現状における岡井の優位はまずひとつここにある。
文章に勢いがあり、最後までぐいぐいと読ませる。内容的には同意する部分も疑問に感じる部分もあるのだが、著者の主張や短歌観をはっきりと打ち出しているところがいい。
2021年2月16日、泥書房、1200円。
岡井隆さんの「加齢を許す文体」というのがよく解りません。「加齢を許す内容」ならまだ理解できるのですが、それだとそのまんま♂゚ぎますね・・・
「加齢を許す文体」の話の前に引用されているのは、岡井隆の次のような歌です。
むしろわたしは賛成なのだ木の股に触れては逃ぐる花びら君に
詩を抱いてゐた年齢のぼくが居た。(たしか急流の中洲、であつた)
詩はつねに誰かと婚(まぐは)ひながら成る、誰つて、そりやああなたぢやないが。
一枚の青衣のやうな空が見ゆそれを着て立つ麒麟は居まい
それぞれ、「むしろわたしは賛成なのだ」「たしか急流の中洲、であつた」「誰つて、そりやああなたぢやないが。」「それを着て立つ麒麟は居まい」といった口語の語り掛けるような言い回しが特徴的ですね。年齢を重ねた人ならではの韜晦や皮肉や余裕などが感じられると思います。
短歌はよく「青春の文学」と言われるのですが、これらの岡井作品は、老齢になっても味のある文体が生み出せることを示したものと言えるかもしれません。
それにしても「むしろわたしは・・・(中洲、であつた)」で一首なんですね。私の中でちょっと結びかけていた前衛短歌のイメージが、また雲散してしまいました(汗)。
ところで「青春の文学」ということについて、確かに本来そうなのでしょうが、アマチュアの方の歌を読んでいて私が一番印象に残るのは、高齢の女性による「(いろいろあったけれど)今は夫(つま)と充実した生活を送っている」系の内容の歌です。
「青春の文学」については、例えば永田和宏さんの下記の文章にある通りです。
https://bookstand.webdoku.jp/news/textview/2015/02/02/150054.html
もちろん実際には、短歌雑誌や短歌大会を見ても年配の人の方が圧倒的に数は多いですし、歌の良し悪しと年齢は関係ないでしょうね。
永田先生の『近代秀歌』『現代秀歌』早速購入しました。重ね重ねありがとうございました。