「綱手」1995年8月号の付録として刊行された冊子。刊行の経緯について田井安曇が「あとがきに代えて」に、次のように書いている。
『海港』一冊を残しただけで、第二回綱手大会(舞子海岸)の頃死んでしまった貫始郎さんのことが大変気になっていた。何とか誌上歌集の形ででも、彼の大柄で情の濃やかな「ごんぞう=沖仲士=の歌」を残したく思い、同じ海仲間の小林高雄さんに作品の蒐集をおねがいした。
収録されているのは1982年〜1989年の作品。
夕焼ははてなく赤し門司戸畑職安めぐりて職のなかりき
せり・わらび・木の芽を摘みて食いて来て失業保険半ば尽きたり
荷役船来ずなりし街に住み老いて霧笛鳴る夜の港恋い行く
去りゆきし友の行方のわからねど共に鋼積む夢に逢いたり
ごんぞうを知るかと問えば知らざりき港見下ろすこの若きらの
海よりの夜霧入り来る屋台のなかごんぞう歌を思いきり唄う
傾きて廃船置場に沈む艀十八鉄丸の文字のなつかし
船内荷役(沖仲士、ごんぞう)の仕事はなくなり、作者は新たな仕事を探す。それでも、荷役の仕事や船の風景を懐かしむ歌が何首も詠まれている。
列なして来て去る車の排気ガス通行券渡す痰吐きながら
機器ならぶ方四尺の箱のなか六十歳われの終いの職場か
作者は有料道路の料金所の仕事に就くが、その仕事についてはほとんど歌に詠んでいない。繰り返し詠まれるのは『海港』と同じく荷役の歌である。再び荷役の仕事に戻ったのかと思うほど、何度も現在形で仕事の様子が出てくる。
アケビほどに盛り上りたる淋巴節に放尿にゆく歩みぎこちなく
補助歩行器にすがりて歩む足もつれもしもし亀よと唄い出したる
音たてて溲瓶に落つる吾が尿を麻酔のさめしベッドに聞きおり
襁褓して尿管いれられ臥すわれの打ちつけられし蛙に似たる
三十キロやせて六十キロの吾の顔かがみに映る眼にひかりあり
吾の死はちかきかこの日ごろKくるYくるOが続けてくる
1986年以降、病気の歌が見られるようになる。亡くなるまでの2年あまりは病院での生活だったのではないか。そんな病気の歌の後にも、現役の荷役仕事の歌が詠まれている。それらは、おそらく病院のベッドの上で詠まれたものだ。現実にはリンパ節が腫れて痩せ衰えた身体になっても、貫始郎は「ごんぞうの歌」を詠み続けた。
それは、単なる懐かしさだけではないだろう。自らが生涯をかけて取り組んできた仕事を、歌の形で残したいという思いがあったからだと思う。時代の移り変わりとともに消えて忘れられていく荷役の仕事を最後まで詠み、1989年に貫始郎は60代で亡くなった。
1995年8月1日、綱手短歌会、1000円。