明治23年に日本で初めて東京・横浜間で電話の取り扱いが始まったが、加入数はわずか197件。明治40年でも5万8000件であった。
それでも、啄木が下宿していた蓋平館別荘には電話があったようで、明治41年9月11日の日記に、啄木はこんなふうに書いている。
明日午後二時から徹宵の歌会をやるといふ平野君の葉書。
並木から電話。実は電話はイヤだつた。イヤと云ふよりは恐ろしかつた。四年前にかけた事があるッ限、だから、何といふ訳もなく、電話に対して親しみがない。今煙草をのんでるので立たれぬからと無理な事を言つて、女中に用を聞かせると、平野から葉書が来たけれど、何にも書いてないと言ふ。仕方なしに立つて電話口に行つたが、何でもなかつた。これからは、いくら電話がかかつて来てもよい。兼題を知らしてやつた。
下宿先に友人から電話が掛かってきて女中が取り次いでくれたのに、電話に慣れてないので啄木は尻込みする。電話機の扱い方がよくわからなかったのだろう。
結局、電話に出るはめになって友人と話をするのだが、そうすると一転して強気になって、「いくら電話がかかつて来てもよい」と思う。このあたり、いかにも啄木らしくて面白い。
遠方に電話の鈴(りん)の鳴るごとく
今日も耳鳴る
かなしき日かな 『一握の砂』