講座では取り上げなかった箇所を2つご紹介。
まずは北原白秋について書いている部分。明治41年9月10日の日記。
北原君などは、朝から晩まで詩に耽つてる人だ。故郷から来る金で、家を借りて婆やを雇つて、勝手気儘に専心詩に耽つてゐる男だ。詩以外の何事をも、見も聞もしない人だ。乃ち詩が彼の生活だ。それに比すると、今の我らは、詩の全能といふことを認めぬ。
裕福で生活にゆとりのある白秋を羨み、また嫉みつつも、詩に対する考え方の違いを明らかにしている。
続いて源氏物語を読んでの感想。明治41年10月1日の日記。
其色と、其才とを以て、天が下の光の君と讃えられた源氏も、二十が二十五になり、二十五が三十になり、三十が三十五になつた。浅間しい。人は生れて、おのづからにして年を老る。そして遂に死ぬ。年を老らずに死ぬものなら、世の中は如何に花やかな、そして楽むべきものだらう。老ゆるに増す浅間しさ悲しさが、またとあらうか。
当時、啄木は満年齢で22歳、数えで23歳。
若さゆえの傲慢さ全開といった感じだが、啄木が老いることなく26歳で亡くなる現実を知っているだけに、複雑な気持ちになる。
いちばん問題になるであろう個所も、ローマ字だと単なる記号の羅列であり、単語の視覚から来る生々しさは排されているように思いました。ここに来て日本語の表記というものが、かなと漢字の視覚的なリズムの上に成立しているとあらためて感じました。
『ローマ字日記』に戻りますと、問題の個所は日本語訳≠オても即物的で、私には寧ろ前のほうの原文だと“sewasii, atatakai, Hukisoku na, Kokyu”のほうが、よほど官能的に感じられました。
蛇足ながら、日本語訳があるお陰で内容が楽に読めるわけで、勿論悪いと言うのではありませんが、モザイク処理したものをわざわざ外す、みたいな感じで、啄木が生きていたらきっと不本意だろうなあと思いました。
(今回はコメント書くのにちょっと苦労しました)
「ローマ字日記」は本来ローマ字表記なので、そのまま味わうのが一番いいでしょうね。当時、日本語のローマ字表記を目指す「ローマ字ひろめ会」という団体もあり、ローマ字はちょっとしたブームでもあったようです。啄木の友人土岐哀果(善麿)の第1歌集『NAKIWARAI』(明治43年)はこの団体の発行で、ローマ字表記の歌集です。
小竹さんの挙げられた箇所についてですが、斎藤茂吉にも隣の部屋の音を聴く歌が何首もあります。日記にもはっきり書いてます。昔は旅先の宿などで音が聞こえることがよくあったみたいですね。
・ねたましくそのこゑを聞く旅商人は行く先々に契をむすぶ/『つゆじも』
・となり間に媚び戯るるこゑ聞きて氷の水を飲みほすわれは/『白桃』
一度、きちんと論じてみたいと思いつつ、果たせておりません。
先週、西神戸の「太山寺温泉 なでしこの湯」という温泉宿に泊まってきました。2食付きのいちばん安いコースで、部屋にカギは無く、宴会用の大広間を襖1枚で仕切っただけ、隣の部屋の声やテレビの音も丸聞こえでしたが、幸か不幸か(たぶん幸)、啄木や茂吉が聴いたような音は聞こえませんでした。
啄木や茂吉の時代と違って、今ではホテルなどが他にいくらでもありますから、そういう音や声を聴く機会はあまりない気がします。