角川「短歌」1987年12月号の特集「宮柊二の世界」の中の一篇だ。前年に宮が亡くなり、野村は三人組の唯一の生き残りとなっていた。
この文章に、「多磨」入会以前の米川のことが書かれている。
宮と私は「多磨」が出る少し前から白秋の所へ行っていたが、米川は「多磨」の創刊によって初めて登場したのであった。(…)巽聖歌の話によると「多磨」への入会申込書には歌歴らしいものは全くなく、長崎で斎藤茂吉の講義を聞いたことがあると書いてあったという。(…)このように米川稔は「多磨」創刊とともに忽然と出現したのであった。
ここで「長崎で斎藤茂吉の講義を聞いた」とあるのは、短歌の話ではない。医学の講義である。
米川は1915(大正4)年から1919(大正8年)にかけて、長崎医学専門学校に通っていた。(この学校は、1923(大正12)年に長崎医科大学となり、戦後、長崎大学医学部となっている。)
そして、斎藤茂吉は1917(大正6)年から1921(大正10)年まで、この学校の精神科教授として赴任していた。つまり、米川は長崎医学専門学校で茂吉の授業を聞いていたというわけだ。
何とも不思議な縁だと思う。