寿福寺に立つ米川稔の歌碑の裏面である。
南海の果にて自決された
軍医中尉米川稔先生を
偲びて
昭和四十六年六月
丸エキ建
と刻まれている。
丸エキさんの名前は遺歌集『鋪道夕映』の米川稔の略歴の中にも出てくるし、宮柊二の後記にも
丸エキ氏(略歴の資料と参考事項をお聞かせ下され、なお別冊に収載し得た鎌倉在住の稔の知人の方々の原稿を頂戴して下された)
と記されている。
また、吉野秀雄の文章(『米川稔短歌百首』あとがき)の中に
「米川稔略歴」の事項内容は丸一恵の奔走によつて集め、更に柊二が援け、秀雄が綜合し作成した。
とあるが、この「丸一恵」も「丸エキ」のことである。丸エキさんは既に20年ほど前に亡くなっているが、このたび娘さんと連絡が取れて、改名によって名前が変ったのだと教えていただいた。
丸エキさんは、もともと鎌倉の米川稔の自宅に併設されていた助産所で働いていた方で、戦後はそこに住んで仕事を続けられた。助産師として雑誌に文章を書いたりもしている。
例えば、「保健と助産」1951年3月号には「開業十年の分娩取扱統計」という3ページにわたる報告が載っている。
私は慶応の養成所を卒業して現在の地(注:鎌倉市大町一〇五〇)に開業して十五年になる一助産婦です。昭和二十一年に開業十周年を迎えましたので、その十年の自分の仕事を反省するため、各種の統計として整理しましたので、御目にかけたいと思います。
十年間の歩みは実は微々たるものです。皆さまの一年に取り扱われる数にも足りないこととは存じますが、私としては、この十年間が一生の仕事の基盤となつたものと信じます。自分では真剣に努力したと確信するこの期間の成果を、こうして数字にして見ますと、今更ながら最も尊い体験を与えられたことをしみじみ感じます。
昭和11年から21年と言えば、そのほとんどが戦時中である。けれども、そんな暗い時代を彼女は仕事に励みつつ、逞しく生き抜いてきたのであった。