越後堀之内―柊二が故郷なり
家竝の低く寒けき町にして五月の昼を人かげもなし
町裏は春ゆたかなる川水に橋一条(すぢ)が白くかかりぬ
雪解水(ゆきしろ)のゆたかにはれる山川のそこごもるひびき偲(しぬ)びをらむか
/米川稔『鋪道夕映』
昭和15年の歌。
米川稔は新潟旅行の途中に宮柊二の故郷の町を訪れている。
柊二より来翰
崇高なるものに向ひて出でたつと生きざらむ心短くしるす
ひさびさのたよりに必死を告げてをり滾滾とわれの悔はふかしも
その後
山西の殲滅戦を想ふとき一人の命肝にひびかふ
昭和16年の歌。
死の覚悟を記した葉書が届いて、戦地の柊二のことを案じている。
柊二留守宅
夕闇の玄関にひそともの言ひてしばし見ぬ間(ま)にをとめさびにけり
母刀自はさみしくまさむ相まみえのたまふことのあとさきもなし
昭和16年の歌。
出征中の宮柊二の家を訪れて、家族の話し相手になったりしている。1首目の「をとめさび」は柊二の妹だろうか?
この昭和16年の時点で米川稔44歳、宮柊二29歳。『鋪道夕映』の後書に柊二は「召集される筈もなかろうと思われていた年齢の稔が召集されて戦死するに到り、稔より先に戦地へ赴いていた若い私が命ながらえて帰り、いま、稔のこの遺歌集の後記を書いている。これもまた運命と呼ぶべきか」と記している。何とも痛切だ。
宮柊二も米川稔も、まさか米川が死に柊二が生き残ることになるとは、思ってもいなかっただろう。そうした事情も、柊二がさまざまな困難を乗り越えて遺歌集『鋪道夕映』の刊行にこぎつけた理由の一つだったのだと思う。
このたびは「軍医の見た戦争―米川稔の生涯」にご参加くださり、ありがとうございました。皆さんからのご質問やご意見のおかげで、私自身さらに考えを深めることができました。御礼申し上げます。戦争がなければ、米川稔は鎌倉に住む産婦人科医として穏やかな人生を送ったことでしょう。あらためて戦争が一人一人の人生を大きく変えてしまったこと、変えてしまうことを胸に刻みたいと思います。