戦地より還りし我を知るもなくかの密林に死にゆきしなり
肖像のこの若さはも別れたる日より三十二年過ぎたり
秋の日は洩れきて砂に動きをりもう一度だけ会ひたきものを
/宮柊二『獨石馬』
米川稔は宮柊二より15歳年上である。しかし短歌を始めたのは遅く「多磨」では同期といった間柄であった。1939年に宮柊二は召集されて中国大陸に行く。この時が二人の終の別れとなった。
柊二27歳、米川42歳。1943年に柊二が召集解除となり帰国した時には、既に米川はニューギニアに渡っていたのである。
太平洋戦争中の1942年11月2日に、二人の師であった北原白秋が亡くなる。米川稔は前日の夕方から白秋宅を見舞いに訪れていて、家族や親族とともに白秋の最期を看取った。米川の報告記「十一月二日の朝とその前夜」(「多磨」昭和17年12月号)には、白秋の亡くなるまでの様子が生々しく描かれている。
「米川さんの眉が険しくなつて来た。」
低いお声であつた。先生の右手首に脈搏を一心に診つづけてゐた自分の顔に、先生が何時の間にか視線を投げてゐられる。切ない笑を自分は笑はねばならなかつた。
発作は名状し難い苦痛といふ外に形容のしやうはない。胸内苦悶も、悪心も、祛痰の困難も看てゐて区別が出来ない。恐らくこの苦痛自体が区別出来る性質のものではないのであらう。
脈を診る米川の深刻な表情を見て、苦しみの中で場を和ませるような冗談を口にする白秋の姿である。
しづかなる時うつりつつみおもてに石膏の厚(あつ)み乾きゆくらし
デスマスクとり終へにけりぬぐひつつそのかほばせのつやめくものを
/米川稔『鋪道夕映』
白秋の亡くなった後にデスマスクをとっている場面である。現在、複製品が白秋の生家に展示されているようだ。
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この時、宮柊二は戦地の中国山西省にいた。まず11月4日に軍用電話で、6日には知人より至急報が届き、白秋の死を伝えられる。
こゑあげて哭けば汾河の河音の全(また)く絶えたる霜夜風音(しもよかざおと)
凌(しの)ぎつつ強く居るとも悲しみに耐へかぬる夜は塹(ざん)馳けめぐる
跟(つ)き来(こ)よと後見(あとみ)告(の)らししみ言葉は今日にあれども直(ただ)に逢(あ)はぬかも
/宮柊二『山西省』
師を失った悲しみと師のもとに駆け付けることのできない苦しさが、全身の叫びとなって詠まれている。