一人は米川と同じ鎌倉に住み鎌倉短歌会を開催していた吉野秀雄であり、もう一人は北原白秋の結社「多磨」で一緒だった宮柊二である。
九月二十九日南方戦線なる米川稔より一書至る
君が便り夫人の前に読む折のこらへし涙夜半に落ちたり
諸共に命なりけりウエワクの暗き蝋の灯に書きしこのふみ
たたかひの激しきにゐてわがために下痢の処方を記し給ひぬ
/吉野秀雄「博物」1943年11月号
米川稔既に亡し。ニユーギニヤ島ブーツ地点密林内に於て昭和十九年九月十五日自決せる由。昭和二十一年一月廿四日速達ありて急遽鎌倉に遺宅を訪ふ。
たたかひがかもす悲劇に膚接して還らずなりし老軍医君
髭少し蓄へし顔うつしゑに残ししからにさらに悲しも
/宮柊二『小紺珠』(1948年)
大佛次郎『終戦日記』(文春文庫)に、こんな記述がある。終戦後の昭和20年8月25日のもの。
夕方村田宅へ呼ばれて行く。木原夏目相馬と加わり三升も飲みし由。吉野君と口論す。過日の文章で米川稔をもう死んだように書いたのが軽率だという非難である。
口論相手の「吉野君」は吉野秀雄のことである。「過日の文章」とあるのは昭和20年8月21日の朝日新聞に掲載された「英霊に詫びる」。
その中で大佛は「私の身のまわりからも征いて護国の神となった数人の人たち」の中に「和歌に熱心な町のお医者さん」を挙げていた。これが米川稔を指している。しかし、この時点で米川はまだ生死不明の状況であった。
米川稔が昭和19年9月に死んだことが明らかになるのは、昭和21年1月17日に所属部隊の生存者が日本に帰還してからのこと。戦死公報もこの日付となっている。
大佛も吉野もいわゆる「鎌倉文士」で、鎌倉に住む米川と交流があった。大佛は米川の遺歌集『鋪道夕映』の別冊に「追想」という一文を寄せている。
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8月12日(金)19:30〜21:00に、野兎舎主催のオンラインイベント「軍医の見た戦争 ― 歌人米川稔の生涯」を開催します。
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