国境にちかき恵須取は燃ゆ戦車隊は襲ひかかれりかの夏の日に
(恵須取・ウグレゴルスク)
三千人のロシアの兵が上陸したるふるさと眞岡 忘るるなかれ
(眞岡・ホルムスク)
豊原まで追ひつめられて投降したり父は小さき白旗をかかげて
(豊原・ユジノサハリンシク)
林田さんは昭和19年樺太の生まれ。ロシア軍のウクライナ侵攻を見て、昭和20年の樺太の様子を思い出しているのだ。もちろん、赤子だったので覚えているわけではないが、両親などから聞かされた話なのだろう。
「虜囚」とはとらはれ人のことなりて白夜を詠ふ 父のおもひは
日の丸を焼きし日あれば抑留のさま父はかたるなし口をふさぎて
終戦後、王子製紙に勤務していた父は3年間に及ぶ抑留生活を送る。
生き延びて家族と再会できたのは、昭和23年のことであった。
作者の父、林田恒利は「多磨」(のちに「形成」)に所属する歌人でもあった。
喚(わめ)きつつ伐採のノルマにいどみゐし童顔の兵も還るなかりし
『火山島群』(昭和39年)
国の旗焼きてソ聯軍をむかへたる日の傷み歳月のなかに重たし
『木香』(昭和50年)
白旗をかつてもちたる掌(てのひら)をつらぬくこゑぞ野の鵯は
老いづきてけふ病むことも抑留の日にかかはると思ひ悔しむ
3年間に及ぶ過酷な抑留と強制労働は、恒利の心と体に生涯消えることのない傷を残したのであった。