アイヌ文学のアンソロジー。収録されているのは、知里幸恵、知里真志保、バチェラー八重子、違星北斗、森竹竹市、鳩沢佐美夫、山本多助、貝澤正、萱野茂の9名。
私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサムのようなところがある?! たとえ、自分でシサムですと口で言い得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない、そんな口先でばかりシサムになったって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだから、それで人間ではないという事もない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。
(知里幸恵 日記)
古老たちの少なくなったことにもよるが、私たちの身辺から素朴な信仰の対象であったイナウ(木幣)が完全に消えていた。盆だとか正月、あるいは命日などに行なっていたシン・ヌラッパ(仏の供養儀式)の、厳かなうちにも華やかな集いも、ほとんど見なくなった。偏見視され蔑まれる直接的なものは、若い層から強硬に頑に否定されてしまったのである。それが祖母の力説する「アイヌもシャモも変わりない時代!」を造り上げたのかもしれなかった。が半面に、私たちが帰依する真の場がなくなってしまっている。
(鳩沢佐美夫「証しの空文」)
祖父らが文字を学び新しい文化を吸収しようと、学校をたて日本人の先生を招いたのは、明治二五年であった。その時は、アイヌ文化とアイヌ語、アイヌ精神まで失うとは、エカシの誰も予期しなかったと思う。
父は学校で受けた教育で、先生の影響を受けて日本人化した代表的なアイヌとなった。天皇を崇拝し、日本民謡を唄い、晩年には、酒が入ると軍歌「戦友」をうたい自己満足していた。
(貝澤正「母(フチ)のこと」
巻末には川村湊の解説「甦るアイヌ文学の世界」、著者紹介、アイヌ文化史年表を収めている。近代以降のアイヌ文学を知るには恰好のアンソロジーと言っていい。現在「品切」になっているのが何とも残念だ。
2010年3月10日、講談社学芸文庫、1500円。