先日の「ふらッと短歌」で、歌の中の二人称をどのように表すかという話になった。「あなた」「君」「お前」など、日本語には二人称がたくさんあり、どれを使うかによって相手との関係性や歌の印象が違ってくる。
翌日、平塚市美術館の「リアルのゆくえ」展に行ったところ、安藤正子「オットの人」という作品があった。「夫」でも「オット」でもなく、「オットの人」。このような言い方でしか表せない距離感というものが、確かにある。ちなみに、英語の題は「He, my so called husband」。
短歌の問題は、短歌の中だけを見ていてもわからない。むしろこうした他のジャンルや社会全般の流れからヒントをもらうことが多い。
私も彼女と全く同感で、男性が女性から「君」と呼ばれることの違和感というか、今の言い方なら上から目線≠ナ、何となく見下されているような印象を受けました。
今冷静に考えてみると、日常生活において女性が男性を君≠ニ呼ぶようなシチュエーションはあまり考えられないにも拘らず(無論皆無ではないでしょうが)、それを口語短歌の中に持ち込んでしまったことが、私の感じた居心地の悪さの原因だったような気がします。
手元にあった『日本国語大辞典』を紐解いてみると、「君」の項には「主として男性語として対等もしくは目下の相手に対して用いられている」「短歌・詩などの文語表現では、現在まで、敬愛する相手に対して用いられている」とあり、私の第一印象もあながち誤っていなかったのかな、と思います。
他の方がどう感じていらっしゃるのか、「ふらッと短歌」参加したかったなと思いました。
考えてみれば、「呼び名」という言葉には二つの意味があるのですね。面と向かって相手を何と呼ぶかという意味と、その人のことを何と言い表すかという意味です。
短歌の「君」の場合は、面と向かって相手を「君」と呼んでいるというよりは、相手のことを歌にする際に「君」と表しているという感じなのだと思います。
俵さんの「君」については、小島なおさんの時評「遥かなる二人称」(「角川短歌」の2021年8月号)でも取り上げられていました。そこでは、永井祐さんの歌との比較で、〈俵の「君」と永井の「君」はまったく違う距離感で詠われていることがわかる〉と書かれています。論点は男女の話ではなく、時代によって変化する相手との距離の話ですが。
私は「万緑の中や吾子の葉生え初むる」の後「吾子(あこ)」というそれまであまり聞き慣れなかった言葉を誰もが使うようになった如く、現代短歌における「君」もまた新しい歌語≠ンたいなものかな、と一元的に捉えていました。
現代短歌と言っても、今や古典≠ナある河野裕子さんの
たとへば君ガサッと落葉すくふやうに私をすくつて行つてはくれぬか
などは相手との距離感や、また語調に文語の風情があるせいか、これは「君」しかあり得ないと思います。
永井祐さんの歌は読んだことがなく、ネットで拾った数首だけでいい加減なことを言うのは厳に慎まねばなりませんが、俵万智さんの「君」が具体的な誰かを想起させるのに対し、永井さんの「君」は完全にイメージ世界の中だけの「君」というか、その歌を詠んでいる永井さん自身もまた実在の人物ではないような印象を受けました。
女性の相聞歌に「君」が用いられること自体は万葉集以来ずっと続いているのですが、口語短歌の中では違和感を覚えるということなのでしょう。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
額田王「万葉集」
みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす
与謝野晶子『みだれ髪』
髪ながき少女とうまれしろ百合に額(ぬか)は伏せつつ君をこそ思へ
山川登美子『恋衣』
ようやく、問題のポイントがわかってきました。