八日前桃の節句に飾りしが雛人形の最期となりぬ
わが命守りてくれしふるさとの寺の鉄筋コンクリートおもふ
わたしの家の跡からリアス海岸をたどって君の家の跡まで
夢の中なんども津波押し寄せてなんども失くす今はなき家
新しきテレビも育てたる牡蠣も大きさを競う浜の人らは
家ごとに濃さの異なる赤飯をそなえて今日は故郷の祭り
壊れたる家を素手もてなほ壊すあの日の父の怖ろしかりき
犠牲者の二万人のうちわが見しは口元に泥付きし祖母のみ
浦の名のつく集落の看板が山に向かって矢印をさす
莫大な嵩上げの土地見渡せば町全体が古墳のごとし
1首目、東日本大震災の8日前の3月3日を最後に失われた雛人形。
2首目、被災して初めて感じる「鉄筋コンクリート」のありがたさ。
3首目、津波で失われた家や海岸線の光景が頭のなかに甦ってくる。
4首目、一度失われたものは、現実にはもう失うことさえできない。
5首目、漁業で生計をたてる人々の大らかで明るい気質を感じる歌。
6首目、上句に発見がある。自分の家で食べるだけでは気づかない。
7首目、持って行き場のない怒りや悔しさが、強烈に滲み出ている。
8首目、「口元に泥付きし」が生々しい。一つ一つの死が持つ重み。
9首目、海辺の集落が高台へと移転したのだ。失われた風景を思う。
10首目、地面の下に震災という過去の時間が封じ込められている。
「東日本大震災を直接的に詠んだ歌を目にした読者は、特別なつらい経験をした可哀そうな人の歌だ、と少なからず思うのではないでしょうか」(まえがき)、「故郷が震災のせいで有名になってしまったことが悔しくて仕方なかった」(エッセイ)など、作者はたびたび「震災詠」「被災者の作品」という点にだけ注目が集まることに拒絶感を示している。
その思いはよくわかるのだが、被災した人が誰でも作者のような歌が詠めるわけではないし、震災体験がそのまま短歌になるわけでもない。作品に対する評価は素材だけで決まるものではなく、当然ながら作者の力に対する評価でもある。
第1歌集『虹を見つける達人』に続いて、この歌集も仙台の出版社「本の森」から刊行された。そうしたところにも、作者の姿勢はよく表れていると思う。この1冊が多くの方々に読まれますように。
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2022年1月4日、本の森、1800円。