副題は「うた心をいしずえに」。
取り上げられている文学者は、林芙美子、樋口一葉、堀口大学、三浦綾子、三島由紀夫、宮沢賢治、三好達治、室生犀星、森鷗外、保田與重郎の十名。(打ち込んでいて気が付いたが、50音順だ。)
いずれも「歌人」ではなく、「小説家」「詩人」「評論家」といった人々である。個々の作品に印象的なものがあるだけでなく、短歌という詩形に対する意見が興味深い。
私は、別の形で自分の思いを語ろうとしはじめていた。詠うのではなく、語ることを持ちはじめたのである。それはキリストの愛を隣人にわかちたいという素朴なねがいであった。むろんその思いは、洗礼を受けた当時から持ってはいたが、それは短歌では果たし得ないことに、私には思われたのだ。(三浦綾子「私の中の短歌」五)
抒情詩に於ては、和歌の形式が今の思想を容るるに足らざるを謂(おも)ひ、又詩がアルシヤイスムを脱し難く、国民文学として立つ所以にあらざるを謂つたので、款を新詩社とあららぎ派とに通じて国風振興を夢みた/前にアルシヤイスムとして排した詩、今の思想を容るゝに足らずとして排した歌を、何故に猶作り試みるか。他なし、未だ依るべき新なる形式を得ざる故である。(森鷗外「なかじきり」)
いずれも、短歌形式の限界や制約に言及していて考えさせられる。
1992年1月5日、朝文社、2500円。