白老村にて
近づけば耻ぢみゆかしみあいぬの子小屋の戸口を出つ入りつする
円き眼によろこび見せてあいぬの子戸に入る我に取りつきにけり
金蒔絵の器はあいぬの宝とするものといふ
小屋隅のきららとしたる片明り金の蒔絵の行器(ほかゐ)よりする
入墨の青き口許美しき笑みをたたへて人われを待つ
熊とると山の峡間の二十里を雪にふむとふあいぬ健夫(たけを)は
怒れるを抱きて刺すとふ熊よりも太き胆をしあいぬは持てる
神祭る窓より入りて日はさしぬまろうどらにと敷ける莚に
草の花あかるき庭に熊のくびかけたる棚は影ひきにけり
あいぬの子手さし入るればじやれつきてわざところがる檻の熊の子
立ちあがり檻の格子に手をかけて熊は見おくる見かへる我を
この一連とは関係ないが、尾上柴舟(八郎)は昭和16年にもアイヌの集落(おそらく白老)を訪れている。これは、当時尾上が勤めていた東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の修学旅行に際してであった。
「お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ」の「卒業記念写真帖」(昭和16年、文科)には「修学旅行」「アイヌ人男性との記念撮影。中央の教官は、左が尾上八郎教授、右が江本ヨシ生徒主事。」という一枚が掲載されている。
https://www.lib.ocha.ac.jp/archives/exhibition/L31_172/a_ph_172-0055.html
修学旅行でアイヌの集落を訪れている点に興味をひかれる。
宮沢賢治は大正3年に盛岡中学の生徒として修学旅行で白老を訪れ、大正13年には花巻農学校の教師として再び修学旅行の引率で白老を訪れている。当時、北海道への修学旅行に際して白老のアイヌ集落に寄るのが、一つの定番のコースになっていたのかもしれない。