2022年03月11日

『蓬莱島余談』のつづき

この本に収録されている船旅は1939年から1940年にかけてのもの。太平洋戦争は始まっていないが、既に日中戦争や第二次世界大戦は始まっている。そのため、ところどころに戦争の気配が漂う。

この頃は独逸語系の猶太人が沢山東洋に流れ込んで来て、郵船の船だけでも既に何千人とか運んだそうである。

これはナチスによるユダヤ人迫害から逃れてきた人々のことだろう。

支配人は私共のテーブルの上を見て、お飲物はお一人につき麦酒又はサイダーのどちらか一本ずつと云う事になっている。こちら様へは既に麦酒二本とサイダーが来ている。もうこれ以上は差上げられないと云った。

物資の不足も始まっていて、百閧フ好きなビールも既に手に入りにくくなっていたのだ。

そして、戦争は船そのものにも大きな影響を与える。百閧ヘ大和丸、富士丸、八幡丸、新田丸、氷川丸などに乗っているが、どの船もその数年後には戦争で沈む運命にあった。

郵船のNYKを一字ずつ頭文字にする三隻の豪華姉妹船が出来る事になった。Nは新田丸、Yは八幡丸、Kは春日丸、いずれも一万七千噸級で、郵船ラインの欧洲サーヴィスに就航させる。

例えば、この新田丸について見てみよう。百閧ヘ1940年4月の新造披露航海に乗船し、各界の名士を招いた船上座談会に参加している。

けれども、第二次世界大戦の影響により、新田丸が欧州航路に就航することはなかった。1941年9月に日本海軍に徴用され輸送船となり、太平洋戦争開戦後の1942年8月には航空母艦に改造され「冲鷹」(ちゅうよう)と改名された。そして、1943年12月に敵潜水艦の攻撃により沈没したのである。

竣工から3年あまりの短い命であった。他の船も、みな同じような経緯をたどっている。こうして、戦前の「船の黄金時代」(川本三郎の解説)は終わりを迎えたのだ。

posted by 松村正直 at 22:07| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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